第二章 帰る場所を海の底に
十七
波待ち
深海の底には、地上の昼も夜も届かない。
それでもカルナの内部では、人間の生活に合わせて照明が緩やかに変化し、夜と朝を作っていた。
修復が始まって、二日。
傷ついたセラフたちの容体は安定し、治療ポッドの中で順調に回復している。
コクヨウの船体も、ロタ率いる機関科の手によって、少しずつ本来の姿を取り戻していた。大きな損傷の応急修復はおおむね終わり、残るのは船体組織の再生と、細かな系統の調整だ。
次の航海へ出るまでの、つかの間の波待ち。
その時間をどう過ごすかは、人それぞれだった。
たとえば――大浴場である。
「だーかーらー! なんでお風呂が、こんなに広いん!?」
朱音の声が、湯気の立ち込める空間に反響した。
コクヨウの客船区画には、馬鹿げたほど広い大浴場がある。
セラフたちがネットで収集した情報から、「現代の豪華客船には大浴場が必要」と判断して設計し、コクヨウが船体の一部を作り変えて用意したものだ。
重傷者の容体が安定し、自動治療へ任せられる時間ができたため、女性陣が久しぶりに集まっていた。
ダスラ、ニサバ、エティン、朱音。
そして湯船の縁には、所在なげに座るツクヨミの姿があった。
ツクヨミは、本来なら風呂を必要としない。
人間と交流するために作られたこの身体には、汚れを自動的に排出する機能がある。それでも今日ここにいるのは、ダスラに誘われたからだった。
昨日、治療室で泣き崩れた朱音を、それとなく元気づけるためでもある。
ツクヨミの姿を見つけた朱音の目が、分かりやすく輝いた。
「立派なものでしょう」
湯に浸かったニサバが、淡々と言った。
もっとも、眼鏡は湯気で真っ白に曇り、本人にはほとんど何も見えていない。
「客船の満足度に関する統計では、投資に対する効果が最も高い設備の一つとされています」
「ニサバさん。その眼鏡、見えてんの?」
「データの検討に、視界は必要ありません」
「お風呂で何を検討してんねん」
誰も、他人の姿を特に気にしてはいなかった。
ただ一人、朱音を除いて。
朱音は、ダスラとニサバの体つきを見て、それから自分へ視線を落とした。
続いて、淡い金色の三つ編みを湯に浸さないよう、頭の上できれいにまとめているエティンを見る。
「……なんやろ。この、世の理不尽は」
「何の話ですの?」
「なんでもない!」
そして、朱音の視線がツクヨミへ留まった瞬間。
ついに、我慢の限界が来た。
「ツクヨミちゃん、身体洗わせて!」
「は? あ、ちょ……」
朱音が、ツクヨミへ飛びついた。
ずっと撫でてみたかったという衝動が、「身体を洗う」という大義名分を得て、堰を切ったのだ。
「あら。では、御髪はわたくしが」
ダスラが、すいと反対側へ回る。
「ツクヨミ様の髪は、わたくしの担当と決まっておりますの」
「いつ決まったん、それ」
「今ですわ」
二人がかりの世話が始まった。
朱音が小さな身体を泡だらけにし、ダスラが銀色の髪へ丁寧に泡を立てていく。
ツクヨミは二人の間で、なすすべもなく、されるがままになっていた。
「……人間の風呂とは」
全身を泡に包まれたツクヨミが、ぽつりと呟く。
「こんなにも騒がしいものなのか」
答えてやる者は、誰もいなかった。
そのとき、湯気の向こうから、力の抜けた声がした。
「……わたくし、少し……のぼせてきたかも、しれません」
エティンの声が、ふにゃりと溶ける。
次の瞬間、頬を真っ赤にした身体が、ずぶずぶと湯の中へ沈み始めた。
「エティン!」
真っ先に動いたのは、ニサバだった。
曇った眼鏡のまま声を頼りに手を伸ばし、沈みかけたエティンを抱き上げる。
その拍子に、大きく湯が跳ねた。
ニサバの眼鏡へ、ばしゃりとお湯がかかる。
真っ白だった曇りが、すうっと流れ落ちた。
視界を取り戻したニサバの目に、その光景が初めてはっきりと映る。
頭から足先までもこもこの泡に包まれ、呆然としているツクヨミ。
その左右で、嬉々として手を動かしている朱音とダスラ。
ニサバの眼鏡の奥で、両目が、かっと見開かれた。
「――朱音様! ダスラ! ツクヨミ様に、何をしているのですかッ!」
深海の底にある大浴場へ、ニサバの絶叫が響き渡った。
◇
湯上がりの脱衣所で、朱音はふと、ツクヨミの足元を見た。
相変わらず、裸足だった。
「なあ。前から思っててんけど」
「うむ」
「ツクヨミちゃん、なんでずっと裸足なん? 靴、履かへんの?」
ツクヨミが、自分の足元へ目を落とす。
床の上に、小さな白い足がそのまま置かれていた。
細く、幼く見える足だ。
だが朱音はもう、それが人間のものではないと知っている。
「必要がないからじゃ」
「痛くないん?」
「痛いぞ」
あっさりと言われて、朱音は目を丸くした。
「熱い床は熱いし、粗い床は、ちゃんと痛い。じゃが、痛みは害ではのうて、報せじゃ。避けるほどのものではない」
「……その報せ、普通の人には音量がでかすぎるんよ」
「それに、靴を履くと感覚が鈍る」
「感覚?」
ツクヨミは、足の裏を床へ軽く押しつけた。
「船体の振動、重心の移動、遠い区画の歪み、熱の流れ。セラフたちの足音も、足裏で拾う方が早い」
「……センサーみたいなもん?」
「近いの。靴を履けば、船体との間に余計なものが一枚挟まる。いざというとき、ほんのわずかではあるが、反応が遅れる」
「一瞬くらい、ええんちゃう?」
「その一瞬で、誰かを守れぬことがある」
ツクヨミは、当たり前のように言った。
「わしの足を守るために、わしの動きが鈍るのでは本末転倒じゃ」
朱音は、ツクヨミの裸足をじっと見つめた。
「そっか。可愛いから裸足なんやと思ってた」
「可愛さのためではない」
「可愛さは満点やけどな」
「……そうか」
ツクヨミは、少しだけ返答に困った顔をした。
「なあ、ツクヨミちゃん」
「うむ」
「前から聞きたかってんけど、体重って何キロなん?」
「わしの身体の質量は、二百五十キログラムほどじゃ」
「…………」
朱音は、ゆっくりとツクヨミを見下ろした。
「ごめん。聞き間違えた。二十五?」
「二百五十じゃ」
「船の部品やん!」
「船じゃからの」
「いや、そういう問題!? 床、抜けてまうやん!」
「質量を、そのまま床へ預けてはおらぬからの」
「重さって、預け方を選べるもんなん?」
「質量そのものは消せぬ。じゃが、重力をどちらへ、どの程度働かせるかは変えられる」
ツクヨミは、自分の足元を指した。
「今、この床へかけておる重さは、四十キログラムほどじゃ」
「二百五十を、四十にしてんの?」
「床へかかる重さを、の。わしの質量が減ったわけではない」
「体重計に乗ったら?」
「四十キログラム前後と表示されるじゃろうな」
「女子の夢やん」
「重さと質量は、別のものじゃからの」
ツクヨミは裸足の足で、床を軽く踏んだ。
「コクヨウが槍を投げるときに使う理屈と、根は同じじゃ」
「二百五十から四十は、夢を通り越してバグやけどな」
◇
その騒ぎとは、まったく無縁の場所で。
ミナトは一人、カルナのドック内を歩いていた。
外装の応急修復がおおむね終わり、システム調整はロタと佐紺に任せられている。手伝えることもなく、少し手持ち無沙汰になっていたのだ。
通りかかったCICの入口で、足を止めた。
中ではエイルが一人、黙々と掃除をしていた。
青い髪。いつものように、ほとんど動かない表情。
手にしたクロスで、環状に並んだコンソールを一席ずつ丁寧に拭いている。
静まり返った指揮所に、布が立てるかすかな音だけが響いていた。
声をかける機会を逃し、ミナトは入口に立ったまま、その様子を眺めていた。
エイルの手が、ある一席で止まった。
ニサバの担当席だった。
ほかの席と、見た目に違いがあるわけではない。
だがエイルは、その席の前でわずかに姿勢を正した。
ほかの席の倍以上の時間をかけて、卓上を磨き始める。
コンソールの縁。
計器の隙間。
肘掛けを留める、小さなネジの周囲まで。
指紋一つ、塵一つ残さないように、細心の注意を払っている。
まるで、大切な何かを世話しているようだった。
ミナトには、エイルがニサバのことを特別に思っているように見えた。
規定を重んじ、何事も理詰めで処理する。それでいて誰よりも細やかに、周囲へ気を配る。
エイルは、そんなニサバの在り方に憧れているのかもしれない。
口に出す代わりに、こうして彼女の席を磨いている。
磨き上げた席を、エイルは一歩下がって眺めた。
自分が見られているとは、思っていないらしい。
無表情だった顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……むふっ」
声とも息ともつかない、小さな音が漏れた。
ミナトは、そっと入口から身を引いた。
見なかったことにしよう、と思った。
あの小さな笑みは、誰かへ見せるためのものではない。
寡黙なセラフが、誰も見ていないと信じて零した、ささやかな喜びだった。
それを見てしまったと、わざわざ本人へ伝える必要はない。
ミナトは足音を立てず、その場を離れた。
胸の中へ、温かいものを一つしまって。
◇
昼が近づいていた。
コクヨウの外装修復は、おおむね終わっている。
機関科のセラフたちは交代で手を止め、ドックの一角で遅めの昼食を取っていた。
船体の修復を手伝っていた佐紺も、その輪へ加わっている。
作業の様子を確認しに来ていたツクヨミも、近くに立っていた。
鎖の外れた首輪だけが残る細い首を、佐紺がふと見た。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
至極真面目な顔で、ツクヨミへ向き直る。
「ツクヨミさんは、腕を外せますよね。ミナトさんを助けた夜、槍にされたように」
「うむ。外せる。失った腕は、後で作り直せるからの」
「では――」
佐紺は、なおも真顔のまま続けた。
「頭部も、一度取り外せるのではありませんか。首から上を切り離せば、その首輪を抜くことができるのではないかと」
一瞬、場がしんと静まり返った。
ツクヨミが、すす、と一歩後ずさる。
「……お主、恐ろしいことを言うのう」
その声には、本気の怯えが混じっていた。
「腕はよい。人型の身体の末端じゃから、外しても作り直せる。じゃが、頭は別じゃ」
自分の頭へ手を添える。
「この身体の意識と制御の結節点は、頭部に集まっておる。落とせば、この姿を保てる保証がない。コクヨウの意思が残ったとしても、今のわしとして戻れるかは分からぬ」
続いて、自分の首元へ触れた。
「考えるのも嫌じゃ。やめてくれ」
「な――なんてことを!」
近くにいたセラフが、食事をよそっていた玉杓子を取り落とした。
慌ててツクヨミのもとへ駆け寄ってくる。
「佐紺様! ツクヨミ様の御身に、なんということを!」
「いや、そのようなつもりでは」
佐紺が、珍しく慌てた。
「腕を外せると伺ったので、てっきり全身が同じ部品で構成される自己再構成型なのかと」
「部品て、お主な。わしは機械ではないと、前にも言うたじゃろうが」
ツクヨミが、げんなりした顔をする。
「腕は身体の末端じゃ。トカゲとて、尻尾は切れても、首を落とせば死ぬじゃろう。おおむね、それと同じじゃ」
「……なるほど。末端と頭部では、役割が違う」
佐紺は、神妙に頷いた。
「失礼を申し上げました。技術的な興味が、先走りました」
「ほんに、お主は……」
ツクヨミは、まだ少し青い顔で息を吐いた。
それから首輪を指でなぞり、思い出したように付け加える。
「それに、たとえ頭を外せたとしても、これが抜けるとは思えぬ」
「なぜです?」
「分からぬ。じゃが、こやつだけは、わしが何をしてもついてくる。そのような気がするのじゃ」
そう口にしたツクヨミ自身も、不思議そうな顔をした。
佐紺は、それ以上尋ねなかった。
鎖が外れた今も、重い首輪だけは、少女の細い首へ変わらず嵌まっている。
その後、佐紺は自分の食事へ目を落とした。
皿の上には、必要な栄養だけを固めた薄い灰色のブロックと、ほとんど味のしない透明なスープが載っている。
「……皆さんは、いつも、これを?」
「んー? ああ」
隣で同じ栄養ブロックを頬張っていたロタが答えた。
「必要な栄養は、全部入ってる。これで足りる」
「足りる、という意味では、そうなのでしょうが……」
佐紺は何か言いかけ、口を閉じた。
代わりに、小さく頷く。
「いえ。よく分かりました」
その横顔が何かを考えていることに、ロタは気づかなかった。
食事を終えると、ロタは機関科のセラフたちを見回した。
「いいか。午後の作業だけど」
黄緑色の髪の小さな隊長は、ぶっきらぼうに、それでも明瞭な声で言った。
「迅速に、正確に。それが基本。けど、それより大事なことがある」
セラフたちが顔を上げる。
「安全第一。疲れたら、すぐ手を止めて休め。水分は、こまめに取ること。少しでもおかしいと思ったら、無理をせずに報告する。――いいな」
あまりにも、まっとうな訓示だった。
深海の底にある異形の船の修復現場とは思えないほど、行き届いている。
佐紺は、思わず口元を緩めた。
「ロタさんは、作業員を大切になさるのですね」
「当たり前だろ」
ロタは、むっとしたように言った。
「この作業は危ない。一つ間違えば、大怪我する」
そこで、少しだけ声を落とす。
「もし、お前らに何かあったら、ツクヨミ様が悲しまれる」
一度、言葉を切った。
「それに――何より、あたしが悲しい。だから、絶対に無理をするな」
ぶっきらぼうな言葉の底に、隊長としての確かな情があった。
セラフたちが、口々に「はい」と答える。
佐紺も、その言葉を静かに受け止めた。
――絶対に無理をするな。
◇
「治療設備のことですが」
出航準備が進む中、ニサバがミナトと佐紺へ告げた。
「カルナの治療ポッドを一台、コクヨウへ積み込みます。医務区画へ収容できる、最大規格のものを」
「一台だけ、ですか」
ミナトは、医療区画に並んでいたポッドを思い出した。
「あの設備は大きすぎるのです。それに、一台を稼働させるだけでも、膨大なエネルギーと修復素材を消費します」
ニサバは、運搬されていく治療ポッドへ目を向けた。
「カルナだからこそ、複数を同時に維持できる。航行中のコクヨウが賄えるのは、一台が限界です」
一度、言葉を切る。
「先に申し上げておきます。先日の港のように、一度に大勢が傷つけば、治療の順番を待っていただくことになります」
その意味を、二人とも理解した。
重傷者が二人出れば、一人は治療を待つ。
待っている間に何が起きるのかは、誰も口にしなかった。
ミナトは、ふと疑問を抱いた。
「そもそも、なぜ最初から積んでいなかったんですか」
「三年前、ここを発ったときにはな」
答えたのは、いつの間にか近くへ来ていたツクヨミだった。
ドームの天井を見上げる。
「あのような怪物と戦うことになるとは、思うておらなんだ。ミルメクスに狙われる者を保護することは考えておったが、大勢が一度に重傷を負う戦いまでは想定しておらなんだのじゃ」
悔やむ声ではなかった。
ただ、三年前と同じ航海には、もう戻れないのだと受け入れる声だった。
「見通しが甘かったのじゃろうな」
積み込まれるポッドを見つめる。
「次は、そうもいかぬ」
◇
コクヨウの修復が一段落した翌日、三人は船内下層の装備区画へ呼ばれた。
案内役は、エティンだった。
いつものメイド服のままだが、その表情には給仕の柔らかさとは違う、任務へ向かう者の静けさがあった。
装備区画は、客船区画とはまるで違っていた。
磨かれた大理石も、金色の装飾もない。
黒い壁。白い照明。整然と並ぶ収納棚。
そこにあるものはすべて、飾るためではなく、生き残るために用意されていた。
中央の作業台に、三人分の衣服が置かれている。
「皆様。新しいお召し物をご用意いたしました」
「着替え?」
朱音が首を傾げる。
「いや、うち、制服でええよ。慣れとるし」
「その制服で、すでに三度、戦場へ出ておられます」
エティンの声は穏やかだったが、有無を言わせなかった。
「次も、そのお姿のまま戦わせるわけにはまいりません。――どうぞ」
広げられた衣服を見て、三人はそろって口を閉じた。
漆黒だった。
コクヨウの船体と同じ、光を吸い込む黒。
だが、三着の仕立ては、それぞれまるで違っている。
朱音の一着には、胸元へ深い赤色の意匠が走っていた。
よく見れば、制服のリボンを思わせる形だ。
動きやすく、しなやかに作られている。それでも、朱音が手放したくないものは、きちんと残されていた。
「……リボン」
朱音が、赤い意匠へそっと触れた。
「うちの、残してくれたんや」
「ええ」
エティンは、それだけ答えて微笑んだ。
佐紺の一着は、濃紺を差し色にしていた。
腰から脚にかけて、大小のポケットと、工具を固定するためのマウントが備わっている。
作業着に必要な機能だけを煮詰めたような造りだった。
佐紺は工具箱を開き、中の工具をいくつか取り出して、それぞれの収納へ収めてみた。
そして、深く満足そうに頷く。
「これは……素晴らしい。必要な道具が、すべて手の届く位置にある」
「西園寺様は、道具がお手元にないと落ち着かれませんから」
「お見通しですね」
そして、ミナトの一着。
三人の中で、最も装飾が少なかった。
差し色もない。
漆黒一色の、無駄を削ぎ落とした滑らかな形だ。
「……俺のだけ、地味ですね」
「シンプルなものが、最もお似合いになると思いまして」
エティンは微笑んだ。
ミナトは、自分の服を見下ろした。
何の色も主張しない、ただ黒いだけの衣服。
だがむしろ、自分にはこれが一番しっくりくる気がした。
三人が袖を通すと、エティンが最後に付け加えた。
「三着とも、襟と袖には白い線を入れてあります」
エティンが、ミナトの襟元を指先で整えた。
漆黒の布地の縁を、細い白が走っている。
襟から肩へ。肩から両腕の外側へ。さらに胸元と脇腹を通り、腰へ至る線。
朱音と佐紺の服にも、同じ白い線があった。
ただ、ミナトの襟だけは、背広の折り返しを思わせる浅いラペルに仕立てられている。
「ミナト様の襟元は、お召しになっていた背広の形を写しました。首元の形が変わると、人は存外、落ち着かないものでございますから」
整えられた襟は、確かに、三年間なじんだ首の収まりのままだった。
「これ、もしかして光るん?」
朱音が、自分の袖を持ち上げる。縁を走る細い線の這い方が、彼女の愛用のゲーミングキーボードの光る縁取りと、よく似ていた。
「平常時には発光いたしません。皆様が共鳴接続を行ったときだけ、色が灯ります」
「色?」
「はい。わたくしどもセラフには、一人ずつ固有の色がございます。接続のあいだ、皆様の線には、おつなぎした相手の色が灯る仕組みです。わたくしどもの瞳は共鳴の際、誰であっても金色に変わりますから、瞳を見ても、どなたとどなたがつながっているのかは分かりません。お召し物の色なら、一目で判別できます」
エティンはミナトの背後へ回り、両手を肩へ置いた。
「失礼いたします」
青い瞳が、内側から金色へ変わった。
同時に、ミナトの襟元を走る白い線へ、一滴の金が落ちた。
金色の光は肩から胸へ、両腕へと滑らかに広がり、漆黒の服の上へ細い回路を描いていく。
胸の奥で、エティンとの接続が、いつもより穏やかに開いた。
「……前より、軽い」
「衣服が、情報の一部を受け持っております。ミナト様とわたくしの組は、金色です」
エティンが手を離す。
金色は端からゆっくりと薄れ、最後には元の白い線だけが残った。
エティンは微笑んだ。
「この黒は、コクヨウと同じ黒色です。その上へ、つながった方の色を受け取れるようにいたしました」
次に、ダスラが朱音の肩へ手を置いた。
「参りますわよ」
「ちょ、心の準備くらい――」
言い終える前に、朱音の白い線が、鮮やかな赤へ変わった。
肩から腕へ走った赤い光が、胸元に残された制服のリボンを思わせる意匠へ流れ込み、そこから一本の射線のように全身へ伸びていく。
「おお……!」
朱音が目を輝かせ、自分の腕を何度も裏返した。
「めっちゃ主人公っぽいやん!」
「医療と火器管制を担う、わたくしの色ですわ」
ダスラは満足そうに胸を張った。
「朱音様には、よくお似合いになります」
接続が解かれると、赤い光も消え、白い線へ戻った。
最後に、ニサバが佐紺の隣へ立った。
「西園寺様。動作確認を行います」
「お願いします」
ニサバの手が、佐紺の右肩へ置かれた。
白い線が、深い青へ染まった。
濃紺の差し色と重なりながら、襟から胸、両腕、腰の工具マウントへ、整然とした光が流れていく。
暗い場所へ配線図が描き出されたような、静かな青だった。
「なるほど」
佐紺は腕を曲げ、肩を回し、腰をひねった。
「接続中の系統が、衣服の上にも表示されるわけですね」
「色だけではありません。負荷が増えれば明滅が速くなり、接続が不安定になれば途切れます。完全に切断された場合は、白へ戻ります」
「組み合わせは、固定なのですか」
佐紺が訊いた。どの系統でも、最初に仕様の境界を確かめるのがこの男の流儀だった。
「いいえ」
答えたのは、エティンだった。
「どなたと、どのセラフがつながっても構いません。灯るのは、常につながった相手の色です。ただ――回線にも、相性がございますので。自然と、落ち着く組は決まってくるようでございます」
ニサバは佐紺の腰へ目を向けた。
「それから、工具の配置を確認します」
佐紺は工具箱から、普段使う道具を次々と取り出した。
ドライバー。テスター。ニッパー。圧着工具。
腰と脚に設けられたマウントへ、一つずつ固定していく。
「収納部は十分にありますね。すべて携帯できそうです」
「収納できることと、すべて持ち歩くべきことは別です」
ニサバは即座に答えた。
「重量と使用頻度を基準に選別してください。必要性の低い工具まで装着すれば、移動と作業の妨げになります」
「ごもっともです」
二人は作業台へ工具を並べた。
使用頻度。
利き手からの距離。
狭い区画での取り回し。
走行時に身体へ当たらない位置。
一つずつ確認していく。
ニサバが、鋼製の圧着工具を持ち上げた。
「これは左腰へ」
「右利きですから、右側の方が抜きやすいのでは?」
「重量があります。身体の中心に近い位置へ固定した方が、走行時に振られません。また、右手で配線を保持したまま、左手でも抜ける位置です」
ニサバは、佐紺の左脇腹に近いマウントへ圧着工具を固定した。
留め具が、かちりと閉じる。
「この位置であれば、作業姿勢を崩さず取り出せます」
佐紺は一度、目を閉じた。
工具を見ずに左手を下ろし、圧着工具の柄を掴む。
引き抜き、構え、元の位置へ戻した。
固定具が再び、かちりと鳴った。
「問題ありません」
「結構です」
ニサバが肩から手を離す。
青い光が消え、佐紺の服にも白い線だけが残った。
三人は、互いの姿を見た。
別々の場所から、別々の服装で、半ば強引に連れてこられた三人。
スーツ。
制服。
作業着。
その面影は、新しい服の形と機能の中へ、それぞれ残されている。
今は三人とも、同じ漆黒をまとい、同じ白い線を持っていた。
つながっていないときは、白。
誰かとつながったときだけ、その相手との色が灯る。
「……なんか」
朱音が、照れ隠しのように笑った。
「さっきより、仲間っぽくなったな。うちら」
誰も否定しなかった。
衣服には、ほかにも複数の機能が織り込まれている。
「内張りには、セラフたちの制服と同じ止血フォームが封入されております。布地の破損と出血を同時に検知した場合のみ作動します。熱や衝撃、飛来する破片から身体を守り、急激な環境変化にもある程度まで耐えられます」
エティンは、ミナトの襟元を走る白い線へ、そっと指を滑らせた。
「そしてこの服には、セラフとの共鳴接続を補助し、情報を翻訳する側の負担を軽減する機能もございます。これがあれば……」
エティンは、さらりと言った。
「次は、わたくしも少し楽ができます」
その言葉が、誰の負担を肩代わりしてきたのかを、静かに告げていた。
ミナトは、誓約封を解いた際に白く冷え切っていた、エティンの指先を思い出した。
次は、この服が彼女の負担を一部引き受けてくれる。
着替えた三人を、エティンは満足げに見渡した。
「お似合いです。――本当に、よくお似合いです」
三人が新しい船内服へ着替え終えると、ダスラが小さな端末を取り出した。
手のひらに収まる、白い板状の医療端末だ。
指先で軽く弾くと、端末の縁から細い光が走り、空中に半透明の表示が浮かび上がった。
「ついでに、皆様の基礎データを測定しておきます」
「基礎データ?」
朱音が、嫌な予感を覚えたような顔をする。
「身長、体重、血液型、筋骨格、神経反応、共鳴接続への適性。医療管理に必要な、最低限の項目ですわ」
「待って。今、体重って言うた?」
「言いましたわ」
「それ、本人の許可が要るやつやろ!」
「医療上、必要ですの」
「女子高生の尊厳上、不要や!」
朱音が端末の前へ立ちはだかった。
ダスラは、少しだけ呆れたように眉を上げる。
「安心なさい。測定結果は、わたくし以外には表示されません」
「そういう問題ちゃうねん!」
結局、朱音の体重だけは本人の強い抗議により、数値を伏せたまま医療記録へ保存されることになった。
ミナトは、身長百七十三センチ。血液型はA型。
朱音は、百六十センチ。B型。
佐紺は、百七十七センチ。O型。
「やっぱりな」
朱音が、得意そうに鼻を鳴らした。
「何が、やっぱりですの?」
「うち、B型やねんけど。ダスラさんもB型やろ」
ダスラの手が、端末の上で止まった。
数秒の沈黙が落ちる。
「……なぜ分かったのですか」
「ふふん」
朱音は胸を張った。
「うち、こういうの当てるん得意やねん」
「人間の性格を、たった四種類の血液型で分類できるわけがないでしょう」
ダスラは呆れたように息を吐いた。
ただし、その口元には、かすかな笑みがある。
「それは統計ですらありませんわ。ただの俗説です。非科学的です」
「でも、当たったやん」
「偶然です」
「ほな、次。エティンさん、AB型!」
朱音が指を差すと、エティンが目を瞬いた。
「……はい。その通りでございます」
「ニサバさん、A型!」
「適合しています」
ニサバが、眼鏡の位置を直す。
「エイルさん、O型!」
壁際に立っていたエイルが、静かに頷いた。
「ロタちゃん、実はA型!」
「えっ、すごい。合ってる!」
ロタが、素直に驚いた。
ダスラの眉間へ、わずかに皺が寄る。
「……偶然が続いておりますわね」
「まだ言い張るん?」
「医学的にも、科学的にも、根拠がありません」
「でも、当たるもんは当たるんやなあ。これが」
朱音は、満足げに笑った。
そこで、ふと視線がツクヨミへ向く。
「……ツクヨミちゃんって、血液、あるん?」
「うむ。流れておるものはあるぞ」
「あるんや」
「お主らの血液とは、かなり異なるがの」
ツクヨミは、自分の左手を見下ろした。
「水を基にした循環液じゃ。熱や情報を運び、傷を修復するための材料を身体の各所へ届ける。人間の血と同じものではないが、役割は近い」
「水なん?」
「水だけではない。ただ、この身体は人間に近い営みができるよう作られておる。食べ、飲み、不要なものを外へ出す。喉が渇くこともある」
少しだけ言いにくそうに、目を伏せる。
「涙も、その流れから作られる」
朱音が、ほんの少しだけ黙った。
泣く。
あまりにも当たり前のように口にされた一言が、かえって胸に残った。
「……そっか」
声を少しだけ柔らかくする。
「泣けるんやな、ツクヨミちゃん」
「……ただ、あまり慣れてはおらぬ」
「慣れんでええやつや。それは」
そこへ、佐紺が口を挟んだ。
「あの、ツクヨミさんは、身体の一部を切り離せますよね」
興味を隠しきれない声だった。
「その際、循環系はどうなるのですか」
「わしの意思で、ある程度は制御できる。切り離す寸前に、その部分へ続く流れを遮断するのじゃ。必要なものだけを残し、循環液の損失を防ぐ」
「なるほど。実に興味深い」
佐紺の目が、完全に技術者のものへ変わる。
「可能であれば、お身体の構造を少し調べさせていただくことは――」
「……それ、事案やで」
朱音が、間髪を入れずに突っ込んだ。
佐紺は、自分の言い方に気づいたように咳払いをする。
「失礼しました。医学的、あるいは工学的な意味で」
「どっちにしても、言い方がアウトや」
「お主らは、相変わらず賑やかじゃの」
ツクヨミは困ったように、けれど嫌そうではなく呟いた。
◇
その日の午後、ミナトはカルナの管制端末の前にいた。
暇を持て余していたわけではない。
糸の向こうで、コクヨウが心地よさそうに修復されていくのを感じながら、ミナトは、この巨大なドックそのものへ興味を惹かれていた。
一万三千年、主を抱いて深海へ潜み続けた施設。
そのシステムは、どのように作られているのか。
ニサバから許可を得て、佐紺が使用していた整備端末を借りた。
ミナトは、カルナの内部構造へ潜るように、情報を読み進めていく。
深く。
さらに、深く。
ほとんどは、修復や生命維持のための、実直なシステムだった。
だが、奥へ進むほど、説明のつかないものへ突き当たった。
アクセスできない領域がある。
パスワードや権限で閉ざされているのではない。
そもそも、そこへ至る経路が存在しない。
システム全体の地図へ、何かを切り取ったような空白がある。
それなのに、そこには確かに何かが存在していた。
膨大な情報の塊が、無音のまま息づいている。
そんな気配だけが、ミナトには感じ取れた。
誓約封の原文へ触れたときと、よく似ている。
手を伸ばしても、何も掴めない。
扉さえ見えない。
「……なんだ、これ」
半日近く粘った。
どの経路を探しても、その領域へはたどり着けない。
論理上、そこは存在しないことになっている。
それでも、確かに在る。
ミナトは佐紺を呼んだ。
「ソフトウェア上は、確かに経路が存在しませんね」
端末を覗き込んだ佐紺は、しばらく考えてから顔を上げた。
「ですが、ミナトさん。これだけの情報が存在するなら、それを保持する物理的な装置が、どこかにあるはずです」
「配線をたどる?」
「ええ。情報の経路が消されていても、電力や冷却、維持のための接続まで完全に消すことはできません」
二人はニサバへ事情を報告し、カルナの図面と、各区画の配線記録を借りた。
ミナトが感じ取った「存在するのに見えない領域」の位置を、佐紺が物理的な配線から逆算していく。
やがて、一つの座標へたどり着いた。
カルナの最深部。
ドームの中枢に近い、幾重もの装甲で守られた区画だった。
「この場所に設備があるという記録はありません」
ニサバが、図面を見つめながら言った。
「ですが、維持系統の一部が、この空白へ吸い込まれています」
ニサバの管理権限で封鎖を解除し、三人は最深部へ向かった。
その奥に――それはあった。
正十二面体の構造物だった。
差し渡しは、二メートルほど。
十二の面のすべてへ、見たことのない文様が隙間なく刻まれている。
コクヨウの肌にも、誓約封の織り目にも似ている。
誓約封と同じ源流を思わせるが、用途に合わせて別の形へ編み直されていた。
各面からは、無数のケーブルと透明なチューブが伸び、カルナの壁の奥へ複雑に接続されている。
「これだ」
ミナトは確信した。
構造物へ近づいた瞬間、胸の奥の糸が、ざわりと反応していた。
「この中に、あの領域があります」
「コクヨウとも、カルナとも異なる技術ですね」
佐紺が、構造物の継ぎ目へ触れないよう、すぐ近くから観察する。
「カルナの建造時から存在したものではありません。後から追加された装置です」
十二面から伸びる接続を、目でたどっていく。
「たとえるなら、外付けの記録装置でしょう。カルナというシステムへ、別の誰かが増設した。膨大な情報を保存するために」
「取り外せますか」
「可能です」
佐紺は答えた。
「ただし、容易ではありません。十二の面すべてに接続されたケーブルとチューブを、正しい順序で一本ずつ分離する必要があります」
表面に刻まれた文様へ、目を細める。
「一つでも順序を誤れば、内部の情報を損なう可能性がある。非常に繊細な作業になります」
◇
その夜、ミナトは、発見した構造物についてツクヨミへ報告した。
ツクヨミの反応は、意外なものだった。
「……知らぬ」
声が、一瞬途切れた。
銀色の瞳に、はっきりとした動揺が浮かぶ。
「わしの帰る場所に、わしの知らぬものが隠されておったというのか」
糸の向こうから、胸のざわめきが、さざ波のように流れ込んできた。
ただ未知の装置を発見した、という話ではない。
記憶を失っているツクヨミにとって、それは自分の知らない、自分にまつわる何かだった。
失われた過去が、また一つ目の前に現れた。
その予感が、ツクヨミを落ち着かなくさせていた。
「中身は分かるのか」
「いいえ。完全に閉ざされています」
ミナトは答えた。
「開くとすれば、佐紺さんが物理的な接続を整えて、俺が内部のシステムを解放する。あなたの許可も必要です。原文の翻訳にはエティンさん、構造の解析にはニサバさんの協力も要ると思います」
「誓約封のときと同じか」
「同じものではありません。ただ、同じくらい慎重に扱う必要があります」
ツクヨミは、長い間黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「持っていこう。コクヨウへ」
「構造物ごと、ですか」
「うむ。取り外せるのであれば、ここで無理に開ける必要はない」
ツクヨミは、胸元へ軽く手を当てた。
「じゃが、わしの知らぬ、わしにまつわる何かが、深海の底へ置き去りにされておるのは……どうにも据わりが悪い」
わずかに目を伏せる。
「手元に置いておきたい。開けるかどうかは、それから決める」
いつでも調べられる、自分の懐へ抱えておきたい。
それが、ツクヨミの望みだった。
「取り外しは、私が引き受けましょう」
佐紺が申し出た。
「内部の情報を保ったまま分離するには、時間と慎重さが必要です。ミナトさんは、修復後のコクヨウのシステム確認をお願いします」
「分かりました」
「これは、私の領分です」
こうして、正十二面体の取り外しは佐紺へ一任された。
翌朝から、佐紺はカルナの最深部へ籠もり、作業を始めた。
◇
作業には、細心の注意が必要だった。
正十二面体は、十二の面すべてでカルナの中枢へ接続されている。
佐紺は、そのケーブルとチューブを、指定された順序に従って一本ずつ取り外していった。
「西園寺様。次は、第七面、二番のチューブです」
傍らに立つニサバが、佐紺の肩へ手を置いていた。
共鳴接続によって、古い構造を人間が理解できる図面へ変換し、分離の順序を伝えている。
紫色の瞳は、内側から金色に灯っていた。
「順序を間違えないでください。一本でも違えば、内部の記録が損なわれる可能性があります」
「承知しています。……しかし、見事な配線です」
佐紺の手は、楽しげですらあった。
「これを組んだ者は、相当な技術を持っていた。一万年以上前に、これほどのものを」
「感心するのは、作業を終えてからにしてください。今は手を動かして」
「手厳しい」
十一の面にある接続をすべて外した頃には、佐紺の指先へ、薄く汗が滲んでいた。
夕刻。
残るのは構造物の上面。
最も複雑な、最後の接続部だけになった。
港での戦いで初めて共鳴接続を行った二人の呼吸は、こうした緻密な作業でこそ、よく噛み合った。
「最後は、上面の通信系統です」
ニサバが言った。
「磁気を利用した、古い通信回路。分離すると、ごく弱い磁場が外部へ漏れます」
「危険は?」
「ありません。人体にも、カルナの機器にも影響を与えない程度です」
「では、分離します」
佐紺は慎重に器具を差し込み、最後の端子の固定ロックを外した。
正十二面体の表面から、かすかな磁場が滲み出した。
ニサバの言葉どおり、ごく弱いものだった。
電気的には切り離されているが、通信束そのものは台座へ残っている。
計器の針が、申し訳程度に揺れただけ。
「記録します。作業起因の微弱磁場、一件。人体・機器への影響、なし」
ニサバが端末へ打ち込み、佐紺は器具を次の端子へ移した。
その揺れが深海のどこまで届いたのかを示す計器は――この部屋には、なかった。
ただ、深い海の底で。
ひっそりと、しかし確実に。
その弱い磁場は、カルナの外へ広がっていった。
海底を越え、暗い海を伝い、さらに遠くへ。
強さではなく、その固有の響きを聞き分けられる、ただ一種類の存在へ向かって。
誰にも気づかれないまま。
何かを、呼ぶように。