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第二章 帰る場所を海の底に

十六

カルナ

逢魔の管理港を離れてから、数日が過ぎた。

朱音は、外洋の変化に気づいた。

ラウンジの大きな窓の外で、水平線がゆっくりと上へ昇っていく。

いや、違う。

水面が上がっているのではない。船が下がっているのだ。

甲板すれすれまで波が迫ってきた。

「……え。ちょっと。なんか、おかしない?」

朱音が窓へ張り付く。波が窓の下半分を浸し、白い泡がガラスの向こうを走った。

「うそやろ。沈んどる! この船、沈んどるって!」

「沈んでいるのではありません」

背後から、落ち着いた声がした。

ニサバが、ラウンジへ入ってきたところだった。眼鏡の位置を、すっと直す。

「潜っているのです」

「もぐ……潜水艦みたいに!?」

「ええ。コクヨウは、潜水形態へ移行しています」

水面が窓に迫る直前、黒い装甲が外側を走り、巨大な船体を隙間なく覆っていく。

視界が一瞬、暗転した。

窓だった壁の全面に、外部映像が映し出される。

白い泡が画面いっぱいに踊り、それが消えると、水中の青い世界が現れた。

ミナトは、その変化を目で見るより先に感じていた。

胸の奥の糸を通じ、コクヨウの身体が組み替わっていく。

戦闘形態の鋭さとは違う。

船体が丸みを帯び、外へ通じる開口部が、一つずつ固く閉ざされていく。装甲が重なり、突起が収納され、水圧を受け流すための滑らかな外形へ変わる。

優雅さのためでも、攻撃するためでもない。

深海の圧力に耐えるためだけの、頑強な姿だった。

「戦いには向きません」

ニサバが言った。

「ですがこの形なら、人の潜水艇では届かない海底まで潜れます」

外の青が、少しずつ濃くなった。

青が群青へ変わり、群青が藍へ沈んでいく。

潜るほど、光が失われていった。

外の世界から、色という色が一つずつ抜け落ちていく。

やがて、映像の向こうは完全な闇になった。

時折、自ら光を放つ深海の生き物が、青白い火花のようにゆっくりと通り過ぎる。

深く。

さらに深く。

潜航を始めてからしばらくして、三人はニサバに導かれ、CICへと移った。

全周囲ホログラムには、コクヨウが感知した深海の景色が再現されていた。実際には何も見えない暗黒の中を、船は静かに沈んでいく。

ある深さを超えたとき、船体が低く鳴いた。

ぎぃ、と、巨大な船体全体が圧力に耐えて軋む。

続いて、ぐ、ぐ、と、骨を締め上げられるような音が、床や壁の奥から響いてきた。

「な、なんの音!?」

朱音が首をすくめる。

「水圧です」

ニサバは平然としていた。

「この深さでは、海そのものが船を握り潰そうとします。コクヨウは、外からかかる力へ船体全体で抗っているのです」

握り潰そうとする海と、それに耐える巨体。

ミナトは糸の向こうで、コクヨウが全身を固くしているのを感じた。

深海へ潜るという行為は、ただ静かに沈んでいくことではない。

一メートル降りるたび、巨大な力と押し合い続けることなのだ。

やがて水深は、一万メートルを超えた。

チャレンジャー海淵。

地上のどんな山を逆さに沈めてもなお底へ届かない、地球で最も深い海域。

その暗黒の底に、それはあった。

CICの全周囲ホログラムに、海底の輪郭が浮かび上がる。

目で見たものではない。

コクヨウが放つ音波。周囲とのわずかな温度差。そして、重力場の揺らぎ。

複数の感覚を重ね合わせ、暗黒の底に沈むものの形を映像へ置き換えている。

巨大な岩塊だった。

差し渡し八百メートルはあろうかという、黒い岩山。

表面はごつごつと不規則に盛り上がり、周囲の海底地形と自然につながっている。深海探査艇が近くを通ったとしても、ソナーには海底の隆起としか映らないだろう。

「あれが……?」

佐紺がホログラムを覗き込んだ。

「ただの岩にしか、見えませんね」

「うむ。そう見えるように作られておる」

コアの傍らで、ツクヨミが答えた。

「あれは岩ではない。岩へ化けておるのじゃ。わしが開かねば、中へ入ることはできぬ」

ツクヨミは岩塊を見つめた。

「船の記録を見る限り、一万三千年のあいだ、外部から侵入された形跡は一度もない。あの姿のまま眠っておれば、人の目で見つけることなどできぬじゃろうな」

軽く目を閉じる。

その瞬間、ホログラムの中の岩塊が変わった。

ごつごつとした岩肌が、内側から波打つ。

剥がれ落ちるのではない。

岩に見えていた偽装がほどけ、人工的な構造物として急速に変化していく。

現れたのは、滑らかな曲面を持つ巨大なドームだった。

その正面に一本の縦線が走る。

続いて、観音開きの門のように、左右へゆっくりと開いていった。

門の奥から、光が溢れる。

今度はセンサーが作り出した像ではない。

本物の光だった。

一万メートルの暗黒に、暖かな光の門が一つだけ灯っている。

「あれが、カルナ」

ツクヨミが言った。

「わしの、古い船渠じゃ」

「……すごい」

朱音が、思わず呟いた。

漆黒の深淵にただ一つ灯る門。

それは、長い旅から帰ってきた者のために、消えずに残されていた家の灯りのようだった。

「三年ぶり、じゃな」

ツクヨミの声が、少しだけ遠くなる。

三年前、コクヨウはこの場所で目覚め、海へ出た。

だが、それより前のことは、ほとんど動かない一万三千年の眠りの記録が横たわっている。

ツクヨミ自身には、その時間の記憶がない。

それでも、目の前の光を見つめる銀色の瞳には、言葉にできない懐かしさが浮かんでいるように、ミナトには見えた。

コクヨウが、開いた門の中へゆっくりと滑り込んでいく。

四百メートルの巨体が完全に収まると、背後で門が閉じた。

ドームの内壁から、無数の太いアームが伸びてくる。

それらは船体を傷つけないよう慎重に触れ、いくつもの支点でコクヨウを固定していった。

船が、ぴたりと止まる。

固定が完了すると、ドーム内部で低い駆動音が響き始めた。

ごうごうという音とともに、内部の海水が排出されていく。

水位が少しずつ下がり、コクヨウの黒い船体が水面から姿を現した。

やがてドームの床が露出する。

海水が完全に排出された頃には、コクヨウは乾いた巨大空間の中央に、ドックアームで支えられて鎮座していた。

「お待たせいたしました」

エティンが微笑む。

「下船できますよ。三年ぶりに帰ってきた、この船の最も安全な場所です」

船腹から、タラップが降ろされた。

ミナト、朱音、佐紺の三人は、コクヨウへ乗船して以来初めて、船から降りた。

そして、そろって頭上を見上げた。

巨大なドーム空間だった。

直径八百メートルの内壁が、はるか頭上で丸い天井を結んでいる。

ハッチの後部には巨大な隔壁があり、大小の設備が埋め込まれていた。

整然と並ぶ作業区画。巨大な物資保管庫。研究施設らしき一角。そして、コクヨウを取り囲むように張り巡らされた、無数の足場とドックアーム。

深海の底とは思えないほど、空間は明るかった。

「すご……基地やん。秘密基地や」

朱音が、ぐるぐると周囲を見回す。

「深海に、こんなんが……」

「一万三千年、コクヨウを守ってきた施設じゃ」

ツクヨミが言った。

「設備だけは、必要なものが揃うておる」

修復は、すぐには終わらなかった。

カルナは、どんな損傷も一瞬で消す魔法の場所ではない。

コクヨウの傷は深かった。

船体側面には、光線を受け流した際の赤黒い熱傷が残っている。

上部構造には装甲を引き裂かれた痕が走り、巨大な槍を成形するために失った船体部分は、今も大きく欠けていた。

すべてを作り直すには、相応の時間と資材が必要だった。

修復の指揮を執ったのは、ロタだった。

「はい、第三区画から! 装甲用の素材、こっちに回して!」

黄緑の髪を振り乱しながら、橙色のつなぎを着たロタが、機関科のセラフたちへ次々と指示を飛ばす。

小柄な娘たちが足場を駆け回り、巨大なアームを操り、コクヨウの傷口へ取りついていく。作業の多くが機械化されているとは言え、最終的には人による判断と管理が必要となるのだ。

カルナの備蓄庫から運び出された金属や鉱物素材が融解され、欠けた船体部分へ流し込まれる。

それをコクヨウ自身の組織が取り込み、少しずつ本来の形へ組み替えていく。

火花が散り、金属とオゾンの匂いがドーム内に満ちていた。

「あんたたちも、見てるだけなら、あっち行ってな! 危ないから!」

ロタに怒鳴られ、三人は作業区画の隅へ追いやられた。

一方、負傷したセラフたちは、カルナの医療区画へ運び込まれていた。

そこには、コクヨウの医務室とは比べものにならないほど、大掛かりな設備が整っている。

透明な治療ポッドが、壁に沿ってずらりと並んでいた。

傷ついたセラフたちが一人ずつ内部へ納められ、淡い光に包まれながら、眠るように目を閉じていく。

「ここでなら、完全に治せますわ」

ダスラがポッドの傍らで、機器を操作しながら言った。

その横顔に、港を離れた直後の「手が足りない」という焦りは、もうなかった。

「砕けた骨も、撃ち抜かれた傷も、一つ残らず。ただし、二日はかかりますわね」

表示された数値を確認し、次のポッドへ手を伸ばす。

「身体組織を編み直すには、相応の素材が必要です。コクヨウのお身体を、これ以上削るわけにはまいりませんから、カルナに残された備蓄を使います」

「では、無限に治せる、というわけではないのですね」

佐紺が尋ねる。

「ええ。素材にも限りがありますわ。だからこそ――」

ダスラの声が、少しだけ硬くなった。

「傷を負わせたくないのです。治せるからよい、という話ではありませんの」

ミナトは治療ポッドの中で眠るセラフを見つめた。

ふと、一つの疑問が浮かぶ。

「……無感情症は」

ダスラが振り返った。

「ミルメクスに心を奪われた人を、ここのポッドで治すことはできないんですか」

ダスラの手が止まった。

「そうですわ」

短い答えだった。

「この設備が治せるのは、身体だけです。砕けた骨、裂けた肉、焼けた皮膚。形のあるものなら、かなりの深い傷でも修復できます」

ポッドの中へ目を向ける。

「ですが、奪われた心は、患者本人の中にはもうありません。ここに存在しないものを、機械だけで作り直すことはできないのです」

その答えが、ミナトの中で一つの線へつながった。

朱音の父親。

光の像の中で、冬の陽を浴びていた横顔。

あの人の身体には、治すべき傷がない。

この深海にどれほど高度な設備があっても、奪われた心を何もないところから再生することはできない。

取り戻すには、レヴィアタンの中にあるものを、本人のもとへ返さなければならない。

戦うためではない。

奪われたものを返させるために、レヴィアタンを追わなければならないのだと、ミナトは改めて思い知った。

カルナへ到着した、最初の夜だった。

治療室では、ポッドに納められたセラフたちが、淡い光の中で治療を受けていた。

容体は自動的に監視されている。

ダスラと医療スタッフは、必要な薬剤と修復素材を準備するため、隣接する調剤区画へ一時的に移っていた。

つかの間、治療室には誰もいなくなっていた。

その静かな部屋へ、朱音が一人で入ってきた。

眠るセラフたちのポッドの前で、膝をつく。

頭を垂れるように俯いた肩が、震えていた。

「……ごめんな」

掠れた、涙声だった。

「ごめん。ほんまに、ごめん」

朱音は、眠る一人ひとりへ謝っていた。

「うち……画面の中やったら、何万回も撃ってきた。索敵も、指示も、得意なつもりやった。でも……ほんまに弾が飛び交う場所へ、自分で飛び込む勇気はなかったんや」

言葉が嗚咽に途切れる。

「安全なところから、指示だけ出して。あんたらだけ、あの修羅場に行かせて。それで、こんなに傷つけて……」

両手を強く握り締める。

「うち、卑怯者や。最低の卑怯者や。指揮官みたいな顔して、ほんまは、ただ怖かっただけや」

その先は、声にならなかった。

朱音はポッドの一つへ額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。

そのとき、隣の調剤区画からダスラが戻ってきた。

入口で足を止める。

朱音の言葉は、すでに聞こえていたのだろう。

ダスラは何も言わず、静かに歩み寄った。

そして、泣きじゃくる朱音を後ろからそっと抱き締めた。

朱音の肩が、びくりと跳ねる。

「ダ、ダスラさん……」

「ええ。聞いておりましたわ。全部」

ダスラの腕は緩まなかった。

背後から朱音を包み込み、その肩口へ静かに顔を寄せる。

「……今は、何も言わなくてよいのです」

理屈で慰めようとはしなかった。

ただ、震える背中を丸ごと抱き締めた。

朱音が振り返り、ダスラの胸へ顔を埋める。

二人は抱き合った。

眠るセラフたちを包む淡い光の中で、朱音の嗚咽が少しずつほどけていく。

ダスラの手が、その背中をゆっくりと撫で続けていた。

その様子を見ていた者がいた。

治療室の扉の陰に、ツクヨミが立っていた。

抱き合う二人を、ただじっと見つめている。

何も言わない。

表情は、いつものように読み取れなかった。

やがてツクヨミは踵を返した。

誰にも声をかけず、音もなく扉の陰を離れていく。

その後ろ姿と、ミナトは廊下で行き合った。

なかなか寝つけず、カルナの中を歩いていたところだった。

医療区画から戻ってくる小さな影に気づき、足を止める。

ツクヨミはミナトを見ると、ほんの少しだけ目を上げた。

それだけだった。

何も言わず、ミナトの横を通り過ぎていく。

糸の向こうから、感情が流れ込んできた。

安堵。

朱音を抱き締めてくれたダスラへの、深い感謝。

そして、その一番奥に隠された、小さな寂しさ。

皆を誰よりも大切に思っている。

けれど、自分からは、あの温かな輪の中へ踏み込めない。

慰めることも、抱き締めることも誰かへ譲り、自分はいつも一歩だけ後ろへ下がってしまう。

それがツクヨミ自身の言葉なのか、ミナトが感情から読み取ったものなのかは分からなかった。

ただ、その温度だけが伝わってきた。

ミナトは追わなかった。

今ここで声をかければ、あの場を見ていたことも、胸の奥の寂しさまで感じ取ったことも、ツクヨミに知られてしまう。

今の彼女は、それを望んでいない気がした。

だから、そっとしておいた。

深海の底で、傷ついた者たちが癒やされ、泣いていた少女が抱き締められている。

その温かな光の輪から、ほんの少しだけ離れた廊下を、誰よりも皆の無事を願う少女が、一人きりで歩いていった。