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第二章 帰る場所を海の底に

十八

絶叫

「――目、覚めたかい」

ロタがポッドの縁へ頬杖をつき、中を覗き込んでいた。

淡い光の中で、一人のセラフがゆっくりと目を開ける。

肩を撃たれた、あのメイド――アヤだった。

針路が変わった日に紅茶のカップを落とし、港の夜には白いエプロンを血で染めながら、それでも銃を手放さなかった娘だ。

「……ロタ」

「――ようやく目を覚ましたかい。傷はもう、痕も残ってないよ」

アヤは上体を起こし、自分の肩へ触れた。

それから周囲を見回す。

ポッドの並ぶ治療室。その入口に、橙色の襟をあしらった船内制服姿の機関科のセラフたちが、ずらりと並んでいた。

「え……あの、皆さん。どうして」

「どうしても何も」

ロタが、ぶっきらぼうに言った。

「あんたが最後の一人だったんだ。全員揃うまで、待ってた」

アヤの目がじわりと潤む。

ロタはそれを見て、気まずそうに頬を掻いた。

「それと……あんたに、言わなきゃならないことがある」

「……はい?」

ロタは頬杖をやめた。

小さな両手を膝の上へ置き、しばらく自分の指を見つめる。

「あの港で、あたしも銃を取ろうとした」

アヤが目を瞬いた。

「けど、駄目だった。銃が重かったわけじゃない。鉄板だって担げるんだからね。だけど、あたしの身体じゃ銃床をまともに肩へ当てられない。腕の長さも足りない。照準を合わせようとしても、銃口がぶれる。あれじゃ、味方を撃ちかねなかった」

ロタは唇を噛んだ。

「あたしは機関長だ。あんたらを守る側なのに、あのときは撃つこともできなかった。負傷者を引きずって逃がすことしか、できなかった」

「そんな……ロタは、私を助けてくれました」

「それでもだよ」

ロタは、まっすぐにアヤを見た。

「あたしが撃てなかった分まで、あんたたちに撃たせた。あんたが肩を撃たれて、それでも銃を離さなかったのを、すぐそばで見てた」

小さな拳が、膝の上で握られる。

「……悪かった。あんた一人に、あそこまで背負わせた」

「違います」

アヤは、すぐに首を振った。

「私は、自分の意思で撃ったんです。コクヨウへ入れたくなかったから。皆様を、ツクヨミ様を守りたかったから」

ロタは、しばらく何も言わなかった。

やがて小さく息を吐き、居住まいを正す。

「――アヤ」

「はい」

「生まれて初めての銃で、怖くなかったはずがない。撃たれて、血を流して、それでもあんたは逃げなかった」

ロタの声は、ぶっきらぼうなままだった。

けれど、その奥には隠しきれない誇らしさがあった。

「給仕をする、その手で。震えながら、それでもコクヨウを守ろうとした」

アヤの目から、涙が一粒こぼれた。

「よく戦った。よく生きて戻った。あたしは、あんたを誇りに思う」

「……ロタ」

「ただし」

ロタは、アヤの額を指先で軽く小突いた。

「次は、撃てるからって無茶するんじゃないよ。船を守るのと同じくらい、自分の命も守れ。銃を捨ててでも、生きて帰ってこい」

アヤは涙を拭い、力強く頷いた。

「はい」

「声が小さい」

「はい!」

ロタはようやく、満足そうに笑った。

「――おかえり、アヤ」

アヤは泣き笑いの顔で、深く頭を下げた。

「ただいま、戻りました」

入口に並んでいた機関科の娘たちも、次々に声を重ねる。

「おかえり」

「おかえり、アヤ」

「待ってたよ」

治療室が、にわかに賑やかになった。

アヤはポッドの中で、涙を流したまま真っ赤になって俯いていた。

その光景を、扉の陰からツクヨミが見ていた。

中へは入らない。

ただ、全員が無事に揃ったことを確かめるように眺めてから、音もなくその場を離れた。

廊下でミナトとすれ違っても、足を止めなかった。

通り過ぎる際に、ぽつりと言う。

「……全員、戻った」

「はい」

「うむ」

それだけだった。

だが、糸の向こうから伝わる温度は、この二日間で初めて緩んでいた。

夕食は、その夜、カルナの食堂区画で全員一緒に取ることになった。

厨房から、若草色の襟をつけた厨房科のセラフたちが、湯気の立つ大鍋を運んでくる。

先頭にいた、少しふくよかな頬の娘が声を張った。

「本日は、快気祝いの特別献立です! 全員分、お代わりもございます!」

厨房長のウェスタだった。

その名は、ローマ神話で炉と家庭を司る女神にちなんで、ツクヨミが与えたものだという。

ウェスタの料理は、栄養計算された完全食へ、ネットで学んだ「ごちそう」の概念を力任せに接ぎ木したものだった。

今夜の献立は、なぜか鯛の尾頭付きと、山盛りの唐揚げと、大きなケーキである。

「快気祝いと、誕生日と、正月が混ざっていますね」

佐紺が言った。

「ネットによりますと、めでたい日には、すべて出すのが作法だと」

「微妙に間違ってへんのが、腹立つわ」

朱音が、唐揚げを頬張りながら言った。

アヤは、機関科の卓へ混ぜられていた。

橙色の襟が並ぶ中に、一人だけメイド服で座っている。

居心地が悪そうにしていたが、ロタから「食べな」と鯛をほとんど丸ごと皿へ載せられ、観念したように箸を取った。

その卓の隅では、エイルが黙々と唐揚げを数えていた。

「……観測報告。ロタの唐揚げは、私より三個多い」

「育ち盛りなんだよ、あたしは」

「私も、育ち盛り」

「あんた、観測班だろ。目を使うだけじゃ、腹は減らない」

「観測は脳を使う。脳は糖を消費する。よって、ケーキを要求する」

「理屈をこねるんじゃないよ!」

笑い声が、ドームの中へ響いた。

ミナトはコーヒーを手に、その光景を眺めていた。

隣へ、エティンが静かに並ぶ。

「賑やかでございますね」

「……ええ」

「カルナの記録によれば、この施設は一万三千年、誰にも見つけられることなく、ここでコクヨウを守り続けていたそうです」

エティンは、湯気の向こうの笑い声を、目を細めて見つめた。

「その間、わたくしどもは何も知らずに眠り続けていた。目覚めたときには、過去の記憶も失っておりました」

声が、少しだけ柔らかくなる。

「ですから、今こうして全員が揃い、同じ食卓を囲んでいる眺めは――わたくしどもには、少し夢のようなのです」

ミナトは何も言わず、頷いた。

この眺めを覚えておこう、と思った。

理由は、自分でも分からなかった。

異変は、深夜に訪れた。

ミナトは、胸の奥の糸に起こされた。

いや――引かれたのではない。

糸が、限界まで張り詰めていた。

コクヨウが、闇の中で全身を強張らせている。

以前にも一度、同じ感覚を味わったことがある。

だが、今のそれは、レヴィアタンが現れた夜とは比べものにならないほど硬かった。

廊下へ出ると、すでに非常灯が灯っていた。

白い襟のセラフが、走ってくる。

「ミナト様! CICへ!」

CICには、すでに全員が集まり始めていた。

全周囲ホログラムに映っているのは、深海の闇だけだった。

何も見えない。

だが観測卓に着いたエイルの声は、いつになく速かった。

「観測報告。遠距離に移動する大質量を確認。深度、本施設とほぼ同一。針路――カルナへ直進」

「レヴィアタンか」

コアの傍らで、ツクヨミが言った。

「構成を照合中。……コクヨウと同一系統。ただし」

エイルの指が止まる。

「先日の個体とは形状が異なる。全体が細長い。ウツボ、あるいは――」

言い終える前だった。

世界が、鳴った。

音ではなかった。

CICの照明が一斉に明滅する。

全周囲ホログラムは砂嵐に呑まれ、観測卓の数値がすべて限界まで跳ね上がり、白く灼けた。

そして、ミナトの頭の中で。

糸が――千切れた。

「っ……!」

膝が落ちる。

コクヨウの感覚が、消えていた。

足の裏に伝わっていた船体の動きも、遠い系統の鼓動も、何も感じない。

いつの間にか聞こえるのが当たり前になっていた音を、突然すべて奪われた。

残ったのは、耳鳴りに似た静寂だけだった。

「ミナト様!」

エティンが駆け寄り、肩を支える。

その瞳が金色へ変わろうとして――途中で激しく明滅した。

同時に、ミナトの船内服にも変化が走った。

襟元の白い線へ、金色が灯る。

だが光は右肩から胸へ届く前に途切れた。

一度、消える。

もう一度、金色が走る。

今度は袖の途中で激しく明滅し、細い火花のように千切れた。

最後に残った胸元の一筋も、力を失ったように白へ戻る。

接続を補助する衣服までが、相手を見失っていた。

「……共鳴接続が成立しません。ミナト様へ、つながれない」

「観測系、全滅」

エイルの声が、初めてわずかに掠れた。

「音響、電磁、熱、重力――観測帯域のすべてが飽和しています」

「何が起きてるん?」

朱音が尋ねる。

エイルは、白く灼けた観測表示を見つめた。

「あれは……叫んでいる。すべての帯域を使って、途切れずに」

「さ……叫び?」

「攻撃です」

ニサバが、眼鏡を直す余裕もなく言った。

「こちらの目と耳を、すべて潰すための。水深一万メートルの暗黒で感覚を失えば、私たちは何もできない」

誰も、その先を口にしなかった。

光のない深海では、音と電磁波、わずかな熱や重力の変化だけが目となる。

それらが今、絶叫によって白く塗り潰されていた。

「ツクヨミ」

ミナトは、千切れた糸の断端を胸の内に抱えたまま顔を上げた。

「どうして、ここが。カルナは一万三千年、見つからなかったんじゃ」

ツクヨミは答えなかった。

いや、答えられなかった。

銀色の瞳を砂嵐のホログラムへ向け、失われた何かを猛烈な速さで探っている。

やがて、その唇から掠れた声が漏れた。

「――図書館じゃ」

「図書館?」

ミナトが聞き返す。

「そう呼ぶのが、近いじゃろう。あの正十二面体の名じゃ。今、思い出した」

ツクヨミは自分の胸元へ手を当てた。

「あの磁気の響きに、欠けた記憶の端が反応した。戻ったのは、名と……ごくわずかな役目だけじゃが」

砂嵐の向こうを見つめる。

「カルナの岩の擬態は、人の目だけではない。同類の感覚すら欺く。じゃから、船の記録に残る一万三千年のあいだ、誰にも見つからなんだ」

声が、さらに低くなる。

「じゃが、図書館の最後の接続は、磁気通信の回路じゃった」

佐紺の顔から、血の気が引いた。

「……あの、無害な磁場が」

「無害じゃ。人にも、機械にも」

ツクヨミは静かに答えた。

「じゃが、あれは本来、わしら調停者が、最も古い時代に使っておった帯域じゃ」

「調停者……」

「わしの――わしらの、本来の呼び名らしい」

ツクヨミ自身も、その言葉の重さを確かめるように呟いた。

「強さではない。あの響きそのものを、同類は聞き分けられる。図書館をカルナから外したことで、閉じておった回路が開き、殻の内側から鳴ってしもうた」

ニサバが、立ち尽くしていた。

顔から血の気が失われている。

手にしたファイルの上で、指が動かない。

いつもなら動揺を隠すために直すはずの眼鏡にも、触れなかった。

「ニサバさん」

佐紺が声をかける。

「……今は」

ニサバが遮った。

声だけは、かろうじて事務的な形を保っていた。

「今は、状況を整理します。検証は、後で。必ず、後で行います」

「状況を整理します」

ニサバは、白く灼けた観測卓の前で、紙と手による筆記へ切り替えた。

紙に書くという行為だけが、今の彼女を辛うじて支えているようだった。

「第一。本船は現在、ドックアームに固定されています。離脱には、固定解除、ドックへの注水、門の開放を順に行う必要があり、即時離脱は不可能です」

一つ目の項目を書き終える。

「第二。この深度で維持できるのは、耐圧形態のみです。戦闘形態へ移行すれば、水圧を受け流す構造が崩れます。敵と戦う以前に、船体が海に押し潰されます」

「第三。主兵装の質量槍は、水中では使用できません。射出できたとしても、初速は海水の抵抗によって急速に失われます」

最後の一項を書き込む。

「第四。外部観測は、全帯域で飽和しています。敵の正確な位置も、距離も捉えられません。――以上です」

「……つまり」

朱音が乾いた声で言った。

「動かれへん。撃たれへん。見えへん、と」

「はい」

「詰んでるやん」

誰も否定しなかった。

砂嵐のホログラムの向こうで、あの声はまだ続いている。

敵は近づいていた。

感覚を潰されていても、それだけは分かった。

カルナの外殻に伝わる圧力が、少しずつ増している。

「……いや」

ミナトが口を開いた。

「一つだけ、まだ手が残っています」

全員が、ミナトを見た。

「敵は、闇雲に叫びながら近づいてるんじゃない。真っ直ぐ、ここを目指してる。目印があるからです」

佐紺へ顔を向ける。

「図書館の磁気回路は、カルナから取り外したことで開放状態になっている。だから、今も固有の響きを外へ漏らし続けてるんだと思います」

「回路を閉じれば」

「外へ漏れる磁場を、図書館の内部へ戻す終端回路を作る。目印を消せれば、敵はこの暗闇の中で正確な位置を見失う可能性があります」

ミナトは、白い砂嵐を見た。

「カルナの擬態自体は、まだ生きてるんですから」

「理屈は通っています」

佐紺が頷いた。

「ですが、図書館は現在、コクヨウの保管区画にあります。終端処理を行うには、通信回路の構造を確認しながら、物理的に配線を組み替えなければならない」

一度、ニサバを見る。

「構造を読むには、ニサバさんとの共鳴接続が必要です」

「今は、使えません」

ニサバが答えた。

「外部からの叫びで、共鳴接続も飽和しています」

沈黙が落ちた。

佐紺は、しばらく自分の工具箱を見ていた。

やがて蓋を開け、中の道具を一つずつ確認し始める。

ドライバー。

テスター。

圧着工具。

ニッパー。

留め金を外す音は、彼にとっての深呼吸だった。

「――行きます」

工具箱の留め金が、かちりと鳴った。

「私が今日、あの十二面の接続を、この手ですべて外しました。順序も、癖も、手が覚えています」

立ち上がり、工具箱を持ち上げた。

「共鳴接続がなくても、配線は配線です。導体と端子と絶縁体でつながっている。私の領分です」

「西園寺様」

ニサバが呼び止めた。

何かを言おうとして、言葉が続かない。

行かせれば、危険は佐紺一人が負う。

止めれば、カルナにいる全員が危険に晒される。

どの規定にも、その選択の答えはなかった。

佐紺は振り返り、少しだけ笑った。

「検証会は、後で行いましょう」

ニサバをまっすぐに見る。

「あなたの判断は正しかった。人体にも機材にも、危険はなかった。足りなかったのは、何と通信する回路なのかという問いです」

一度、自分の工具箱へ視線を落とす。

「それは、私も同じです。隣で聞いていながら、その問いを出さなかった。あなた一人の責任ではありません」

ニサバの喉が、小さく動いた。

「……保管区画へ到着した時点で報告してください。その後は十分ごとに、シールドされた船内有線電話で状況報告を」

「様式は?」

「第三号で結構です」

「承知しました。時間厳守で」

二人だけの、いつものやり取りだった。

佐紺が駆け出していく。

その背中へ、ロタが叫んだ。

「佐紺!」

初めての呼び捨てだった。

佐紺が、足を止める。

「――絶対に、無理をするな!」

昼間の訓示と同じ言葉。

同じ、ぶっきらぼうな声だった。

佐紺は振り返らなかった。

ただ、片手を上げて応えた。

扉が閉まる。

砂嵐の向こうで、声がまた一段、近づいた。

ツクヨミは、コアの傍らで目を閉じていた。

糸は千切れ、ミナトにはもう、その感情が届かない。

それでも、彼女が何をしようとしているのかは、閉じた目と、必死に何かを探る横顔から分かった。

終わらない叫びを、聞いている。

感覚を潰すほどの叫びの奥に、かつての歌が残っているのかを探している。

「……ツクヨミ」

ミナトが呼びかける。

「分からぬ」

目を閉じたまま、ツクヨミは答えた。

「うるさすぎて、何も聞こえぬ。じゃが、あれもわしの同類じゃ」

ゆっくりと、銀色の瞳を開く。

「あの叫びの底に、何かが残っておるのやもしれぬ。もう何もないのやもしれぬ」

白い砂嵐を見据える。

「佐紺が、目印を消す。それまで、この船は――息を殺す」

CICの照明が、一段落ちた。

深海の底で、黒い船と傷だらけのドックが闇に紛れる。

押し寄せる声の壁を前に、ただ息を潜めて待ち受けた。