第二章 帰る場所を海の底に
十五
銃
補給は、避けられなかった。
「備蓄が、底を突きかけています」
その日の作戦会議で、ニサバは図面ではなく、在庫表を広げた。
「先の戦闘で、コクヨウはご自身の船体を削り、巨大な槍へ成形されました。失った質量を補うため、備蓄していた金属資材を修復へ回しておりますが、海水からの回収だけでは追いつきません」
紙面を指でなぞりながら、淡々と項目を挙げていく。
「船体修復用の資材、医療物資、食料。どれも、このままでは次の戦闘を支えられません。逢魔の管理下にある補給港へ、一度寄る必要があります」
「逢魔の管理港、ですね」
佐紺が確認する。
「ええ」
ニサバは頷き、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「逢魔というのは、九十九財団の母体となった組織です。表向き、九十九財団は人命救助を掲げる巨大財団。ですが、それは逢魔が現代社会で活動するために持つ、表の顔の一つにすぎません」
「財団より、逢魔の方が古いん?」
朱音が尋ねる。
「はるかに」
「どれくらい?」
ニサバは一度だけツクヨミへ目を向けた。
「記録が残る以前から、とだけ申し上げておきます」
それ以上は語らず、在庫表の次のページを開いた。
「もう一つ、逢魔へ要請したものがあります」
「何を?」
「銃です。人間製の小銃を」
その言葉に、ツクヨミが顔を上げた。
「……銃?」
「陸上で襲撃を受けた場合に備え、セラフたちへ最低限の自衛手段を持たせます」
「ならぬ」
返事は早かった。
いつもの凪いだ声ではない。刃物のように鋭い拒絶だった。
「あの子らに、人を撃つ道具など持たせぬ。あの手は、誰かを傷つけるためにあるのではない」
「ツクヨミ様」
ニサバは表情を変えなかった。
「コクヨウ本体の主兵装は、ご自身の一部を質量弾として射出するものです。港で使用すれば、敵だけを狙ったとしても、岸壁も、その背後の市街地も巻き込みます。島を砕くほどの質量兵器を、人の暮らす場所で撃つことはできません」
「わしの、この身体であれば、陸でも戦える」
「お一人で、港の全域を守ることはできません」
ニサバは静かに言った。
「敵が複数の方向から現れれば、必ず守りきれない者が出ます。船体から離れたセラフを防護壁で守るにも、距離と数に限界がある。ですから、一人ひとりに、自分と隣の者を守るための武器が必要なのです」
「それでも、ならぬ」
ツクヨミの声には、ほとんど怯えに近い響きが混じっていた。
「あの子らに銃を持たせるなど……人を撃つ道具を、あの子らの手に握らせるなど」
その拒絶の激しさに、ミナトは言葉を失った。
ツクヨミは銃を嫌っているのではない。
武器そのものを、それを握らされる手を、憎んでいる。
そうとしか思えない拒み方だった。
だが、ダスラが静かに前へ出た。
「ツクヨミ様」
いつもの余裕を含んだ声ではない。医療を預かる者として、覚悟を決めた声だった。
「では、お尋ねいたします」
赤い瞳が、ツクヨミをまっすぐに捉える。
「次に陸で襲われたとき、丸腰のあの子たちが目の前で倒れていくのを、ツクヨミ様はただ見ておられますか」
「……っ」
ツクヨミの唇が止まった。
「わたくしは、もう御免です」
ダスラは続けた。
「あの子たちが、守る術もなく傷ついていくのを見るのは。銃を持たせるのは、戦わせるためではありません。生きて、この船へ帰らせるためです」
長い沈黙が落ちた。
やがてツクヨミは目を閉じ、絞り出すように言った。
「……扱いだけ、教えてやってくれ。必要なことだけで……よい」
苦渋に満ちた声だった。
「港にいる時間は、一秒でも短くする。使わずに済むなら、それが一番じゃ」
それから数日、セラフたちは航行中の船内で銃の操作訓練を重ねた。安全装置、装填、照準、弾倉交換。実物を手にする前に、身体へ覚えさせられる手順だけは、繰り返し叩き込んだ。
コクヨウが逢魔の管理港へ到達したのは、訓練を始めて三日目の深夜だった。
ツクヨミは一度も訓練を見に来なかった。
◇
逢魔の管理港は、人の気配のない巨大なコンテナ埠頭だった。
港湾灯は落とされ、積み上げられたコンテナの影が、闇の中に黒い壁を作っている。
深夜二時。
コクヨウは、音もなく接岸した。
CICの全周囲ホログラムに、夜の埠頭が映し出されている。
非常用の青白い誘導灯だけが岸壁の輪郭を薄く浮かび上がらせ、その光の中に、黒いコートの男が立っていた。
痩せた長身。五十前後の、無駄のない立ち姿。
八代のように人前に立ち慣れた男ではない。もっと現場に近い。待機と撤収と、危険な段取りに慣れた者の立ち方だった。
佐紺が、ホログラムの中の男を見て目を細めた。
「鵜飼さん」
思わず名を呼ぶ。
通信はすでにつながっていた。鵜飼は特に表情を変えなかった。
『西園寺さん。ご無事で何よりです』
「あなたが持たせてくださった工具箱が、何度も役に立ちました」
『そうですか』
鵜飼は一拍だけ置いた。
『では、持たせて正解でした』
それだけだった。
だが佐紺は、わずかに口元を緩めた。
岸壁には鵜飼のほか、黒い作業服を着た係官と警備員が十数名、間隔を空けて配置されている。港湾カメラ、赤外線センサー、海上レーダー。そのすべてが、周囲に異常なしと表示していた。
『補給物資の搬入準備は完了しています』
鵜飼が報告する。
『金属資材、医療物資、食料。それから、要請のあった小銃と弾薬も』
その最後の言葉で、ツクヨミの表情が曇った。
岸壁の一角には、黒いケースがいくつも並んでいた。開かれた一つの中に、無骨な小銃が整然と収まっている。
『使わずに済むなら、それが一番です』
鵜飼は言った。
『ですが、丸腰で立たせるよりはましです』
「……分かっておる」
ツクヨミは小さく答えた。
「分かっておるから、苦しいのじゃ」
補給作業が始まった。
船腹から伸びた搬入アームが三基、岸壁のコンテナへ接続される。金属資材や医療物資が、次々と船内へ運び込まれていく。
船外へ出たセラフは二十七名。逢魔の要員は十四名。
すぐに出航できる状態ではなかった。
二〇式五.五六ミリ小銃。
人間が作った、ごく普通の武器だ。
可憐なメイド服の上から簡易弾帯を締めたセラフたちが、係官の説明を聞いている。
安全装置の位置。弾倉の装着。構え方。引き金へ指をかけるタイミング。
航行中にシミュレーターで繰り返した内容を、実物の重さと操作感で確認していく。
誰も笑わない。
一言も聞き漏らすまいと、真剣な顔で頷いている。
ツクヨミは、CICの中からその光景を見ていた。
膝の上に置いた両手が、強く握られていた。
埠頭の外れでは、エイルが新しい観測機材を受け取っていた。
コンテナへ腰掛け、機材の設定を確認していたエイルが、ふと顔を上げる。
青い瞳が、わずかに細められた。
「……増えてる」
誰にともなく呟く。
手元のレーダーではない。
エイル自身の目が捉えていた。
積み上がったコンテナの影に、先ほどまで存在しなかった人影がいくつも立っている。
侵入してきたのではない。
何もない場所から、いつの間にかそこにいた。
深夜二時の、封鎖された港に。
エイルは立ち上がった。
そして、抑揚のない声のまま、出せる限りの声量で叫んだ。
「敵襲! コンテナの陰、東側、二十以上! 全員、銃を!」
CICで、ミナトの背筋が凍りついた。
ホログラムに映るコンテナの影から、人影が一斉に姿を現す。
黒い戦闘用のボディスーツ。
頭部全体を覆う、つるりと平坦なヘルメット。顔はない。
手には人間の小銃に似た、けれど、どの国の制式とも異なる歪んだ銃。実物を写し取りながら、細部の意味までは知らないまま複製したような形をしていた。
「ミルメクス……!」
銃声が、闇を引き裂いた。
係官の一人が胸を撃たれ、仰向けに倒れる。
実銃の確認は、そこで終わった。
『全員、伏せろ。負傷者をコンテナ裏へ』
最初に動いたのは鵜飼だった。
声を張り上げるわけではない。だが、その短い命令だけで、迷っていた係官たちが一斉に動き始める。
鵜飼は倒れた係官の襟を掴み、コンテナの陰へ引きずり込んだ。
『搬入口を塞げ。船には近づけるな』
それだけ言うと、脇下から拳銃を抜く。
だが、すぐには撃たなかった。
撃てば敵の視線がこちらへ向く。
今の鵜飼の役目は、敵を倒すことではない。港にいる人間を一人でも多く遮蔽へ移すことだった。
『船外にセラフ二十七名、逢魔要員十四名。搬入アーム三基、接続中』
ニサバが報告する。
『直ちに離岸した場合、船外の全員と搬入区画を岸壁へ置き去りにします』
逃げることはできる。
だが、それは外にいる者たちを見捨てることと同じだった。
そしてCICの中で、真っ先に動いたのはツクヨミだった。
「――いかん!」
ホログラムの中で仲間が撃たれるのを見るなり、身を翻してタラップへ向かう。
あの子らのところへ。
理屈ではない。身体が先に動いていた。
「ツクヨミ様!」
ダスラが行く手に立ち塞がった。
両腕を広げ、小さな身体を正面から受け止める。
「どけ、ダスラ! あの子らが撃たれておる!」
「なりません!」
「どけと言うておる!」
ツクヨミがダスラを押しのけようとする。
本気で力を使えば、止められる者などいない。
だが、ツクヨミの手はダスラの肩へ触れたところで止まった。
力を込めれば、この大切な娘を傷つける。
それができず、小さな身体だけが、行き場を失って震えていた。
その背へ、後ろから腕が回される。
エティンだった。
ツクヨミを、きつく抱き締める。
「……エティン。お主まで」
「いけません、ツクヨミ様」
エティンの声は穏やかだった。けれど、回された腕は決して緩まない。
「あなた様が出れば、敵はすべて、あなた様へ向かいます。あの子たちは、あなた様を守ろうとして持ち場を捨てるでしょう。それでは、さらに多くの者が傷つきます」
「じゃが……!」
「あの子たちが命懸けで守ろうとしているものを、あなた様ご自身が危険へ晒してはなりません」
ツクヨミの動きが止まった。
小さな身体が、二人の腕の中で震えている。
「……わしは」
掠れた声だった。
「わしは、誰も失いとうない。一人も」
銀色の瞳に、涙が滲んでいた。
「頼む。……頼むから、誰も死なせんでくれ」
それは命令ではなかった。
いつも凪いで、何を考えているのか分からなかった少女が、初めて剥き出しにした、祈りのような懇願だった。
すべての仲間が可愛くて、大切で、一人残らず生きていてほしい。
普段は決して表に出さない本心が、堰を切って溢れていた。
ミナトは、その姿に胸を打たれた。
同時に悟った。
ツクヨミが動けない今、戦況を変えられるのは、自分たちしかいない。
ツクヨミが涙の滲んだ目で、三人を見る。
「……ミナト。朱音。佐紺」
懇願が、今度は三人へ向けられた。
「お主たちの力を、貸してくれ。わしは、ここを動けぬ。あの子らを――どうか、全員、生きて帰してやってくれ」
ミナトは頷いた。
迷いはなかった。
「やります。――朱音さん、佐紺さん」
「言われんでも!」
朱音は、すでに俯瞰映像へ向き直っている。
「佐紺さん、港のシステム、こっちに開ける?」
『緊急管理権限を送ります』
鵜飼の声と同時に、逢魔側の認証情報がコクヨウへ届いた。
「受領しました」
ニサバが佐紺の肩へ手を置く。
紫色だった瞳が、内側から熔けるような金色へ変わった。
共鳴接続。
港の複雑な管制構造が、佐紺の頭の中で整然とした図面へ変換されていく。
「黒金さん。系統を洗い出しました」
佐紺の声が早くなる。
「クレーン、ゲート、シャッター、港湾灯。導線は私が組み立てます。実際の操作を」
「任せてください」
ミナトの指が端末を走る。
佐紺が共鳴接続を通じて港の構造を読み、使うべき系統を選ぶ。ミナトが、その指示どおりに設備を動かす。
二人がかりで、巨大な港そのものがセラフたちの味方へ変わっていく。
一方、前線ではセラフたちが動き始めていた。
彼女たちは躊躇わなかった。
足元の二〇式小銃を、可憐な手が掴み取る。
安全装置を外し、通信機能を備えた電子イヤープラグを耳へ押し込む。白いエプロンのポケットへ、予備の弾倉を差し込む。
ホワイトブリムを揺らし、コンテナの遮蔽へ走り出した。
給仕し、もてなすために在る者たちが、コクヨウへの侵入を防ぐためだけに、一人残らず銃を取って走る。
だが、最初の一射で、シミュレーターと実戦の違いを思い知った。
肩へ返る衝撃そのものは、耐えられないほどではない。
問題は、音だった。
閉ざされたコンテナ街に銃声が反響し、耳をつんざく。イヤープラグをしていても、腹の底まで響く衝撃までは消せない。
身体が一瞬すくむ。
その間に銃口が跳ね、次の弾を撃つ頃には、照準が敵から大きく外れている。
教わった構えは、本番の恐怖と轟音の前で、簡単に崩れていった。
弾は夜空へ、地面へ、無関係なコンテナへ逸れていく。
それでも――誰も、銃を捨てなかった。
震える手で、跳ねる銃口を必死に押さえる。
逸れた照準を、何度も敵へ戻す。
撃って、外して、また撃つ。
白い指が、無骨な鉄を握り締めて放さなかった。
「右端の子、そこ撃たれる! もっと奥まで下がって!」
朱音の指示が、通信系統を通じて港中へ届く。
「左の二人、伏せて! 三秒後、頭の上にコンテナ通るで!」
ミナトがクレーンを操作する。
吊り上げられたコンテナが、セラフたちの頭上へ鋼鉄の屋根を作った。敵弾が側面へ弾かれ、火花を散らす。
ゲートを閉じ、敵の回り込みを断つ。
港湾灯を一斉に点灯させ、暗闇に紛れていた敵を白い光の中へ引きずり出す。
それでも、戦況は覆らなかった。
片や、戦闘用に武装され、統率されたミルメクス。
片や、実銃を手にして間もないセラフたち。
轟音に身体をすくませ、反動に照準を取られる。
それでも撃つ。
弾倉を替え、また撃つ。
一人が、肩を撃たれて倒れた。
見覚えのある顔だった。
針路が変わった日、紅茶のカップを取り落とした、あの娘だ。
コンテナの陰で撃たれた肩を押さえながら、それでも片手で銃を構えている。
純白のエプロンが、流れた血で赤く染まり、内側から、白い止血フォームが噴き出した。
娘たちの命をつなぐ応急機構が、銃創の前後を包み、流血を押さえ込んでいく。
だが娘は、それを治療が済んだ合図だとでもいうように、片手で銃を構え直した。
そこへ、橙色のつなぎを着た小さな影が猛然と走り込む。
ロタだった。
「アヤ!――しっかりおし!」
倒れたセラフ、アヤの襟首をむんずと掴み、そのまま力任せにコンテナの陰へ引きずっていく。
小柄な身体のどこに、と思うほどの力だった。
負傷したアヤは、銃を手放さなかった。
ロタに引きずられながらも、迫る敵へ向けて引き金を引いている。
「泡が固まったからって、治ったわけじゃないんだよ!」
「ロタ……まだ、撃てます。船を、守らな……」
ロタは奥歯を噛んだ。
何も言い返さず、ただ引きずる手に力を込めた。
その惨状の中で、ミナトは港の外れへ目を向けた。
全周囲ホログラムには、何も映っていない。
だが、糸とは別の場所で、ミナトのこめかみが冷えた。
コクヨウから届いた感覚ではない。自分自身の中にある何かが、岸壁の突端だけを異物として拾っていた。
コクヨウの感覚にさえ映らない何かを、ミナトだけが別の形で捉えていた。
淡く発光する、人の形。
青年のように見える輪郭。
その顔は、能面を思わせるほど白く、表情がなかった。
戦わない。
手も下さない。
ただ、傷ついていくセラフたちと、撃ち続けるミルメクスを観察している。
記録するように。
見定めるように。
「朱音さん。岸壁の突端に、カメラを」
「突端? ……なんもおらへんで」
朱音が映像を切り替える。
カメラが向いた、その瞬間。
光の青年は粒子へほどけ、消えた。
「え?」
ホログラムには、空の岸壁しか映っていない。
能面のような白い顔だけが、ミナトの目の奥に焼きついていた。
戦況を変えたのは、エイルの声だった。
機材の陰から敵を観察し続けていたエイルが、抑揚のない声でCICへ報告する。
『観測報告。敵の行動に規則性を確認』
銃声の間隔を測るように、短く沈黙する。
『射撃後、三歩前進。再射撃後、さらに三歩。遮蔽を移る間隔も、ほぼ一定。状況を判断して動いていない。決められた手順を、繰り返しているだけ』
朱音の目が見開かれた。
「……BOTや」
決められた動きしかしない敵ほど、行き先を読みやすいものはない。
画面の中で、何千回も狩ってきた相手だ。
「読めた。ミナトさん、佐紺さん、聞いて!」
朱音の指示が一変する。
敵の「次の三歩」を先回りし、セラフたちを安全な射線へ移す。
佐紺が敵の進路と設備の位置を重ね、ミナトがゲートとシャッターを順番に動かしていく。
敵が次に踏み込む地点へ、クレーンが鉄材を落とした。
退路へシャッターが下りる。
規則的な敵は、その規則ゆえに罠へ嵌まった。
動きを止めた的になら、不慣れな射撃でも届く。
「今や! 撃って!」
一体、また一体と、ミルメクスが崩れていく。
どれだけの時間が経ったのか。
実際には、十数分ほどだったのだろう。
だがミナトには、その十数分が一晩よりも長く感じられた。
一発撃たれるたび、一人が倒れるたび、時間が飴のように伸びていく。
指示を出す朱音の声も、設備の位置を告げる佐紺の報告も、ひどく遠く聞こえた。
決定打を作ったのは、ミナトだった。
港中のシャッターを順番に落とし、前進してきた敵部隊を三つに分断する。
そのうち一群を区画内へ閉じ込め、退路を断った。
孤立した個体を、エイルの予測と朱音の指示で一体ずつ倒していく。
閉じ込められた一群が全滅し、外側に残った敵が半数を下回ったところで、ミルメクスはようやく撤退を始めた。
追わなかった。
追える状態でもなかった。
鵜飼から短い報告が入る。
『逢魔側、負傷者五名。死者なし。最初に撃たれた係官も、防弾板に救われました。命に別状はありません』
ツクヨミが目を閉じ、わずかに息を吐いた。
コクヨウは、ついに一度も武装を使わなかった。
いや、使えなかったと言うべきだ。
あの質量兵器を撃てば、港だけでは済まない。その背後にある無関係な街まで消し飛ぶ。
四百メートルの巨体は無防備に接岸したまま、人間とセラフたちが満身創痍で戦うのを、見ていることしかできなかった。
辛うじて凌いだ。
勝ったとは、とても言えなかった。
退いていく敵を見送りながら、ミナトは異変に気づいた。
倒れたミルメクスの身体が、白い霧のように崩れていく。
中身を失った戦闘服とヘルメットが、形を保てず地面へ落ちた。歪な銃も、その脇へ転がる。
死体は、一つも残らなかった。中身など、最初からなかったのだ。
消えるのは、身体だけだった。
残された銃と装具の幾つかは、撤収するセラフたちの手で船へ運び込まれた。後の解析で分かったことは二つ。素材はミルメクスの外皮と同系でありながら、砕けても霧のようには消えないこと。そして内部に未知の機構は一つもなく、火薬で弾丸を飛ばす仕組みだけが、人間の銃器から寸分違わず写し取られていたことだった。
あれを作った何かは、人間を観察し、結論を出している。至近の撃ち合いで最も効率のよい道具は、人間が人間を撃つために磨いてきた銃である、と。
道具として素直によくできていた。それが、かえって不気味だった。
◇
明け方。
補給作業を中断し、港から離れたコクヨウの医務区画は、足の踏み場もない状態だった。
負傷したセラフは十数人。
深い裂傷。砕けた骨。撃ち抜かれた肩。
ダスラが、血の気の失せた顔で寝台の間を走り回っている。
「……手が、足りませんわ」
初めて聞く弱音だった。
「この子たちの傷は深すぎます。応急処置はできます。命もつなげます。ですが、わたくしの手当てだけでは、完全には治せません」
寝台の上のセラフたちは、誰一人、自分の痛みを訴えなかった。
駆け寄ったツクヨミの顔を見るなり、肩を撃たれた一人が、ふっと微笑む。
「ツクヨミ様……ご無事で、ようございました」
「お船には、一体も入れませんでしたよ」
足を裂かれた一人が、誇らしげに言う。
「わしのことなど、よい」
ツクヨミの声が震えていた。
あれほど船外へ出ることを止められた少女が、今、一つひとつの寝台の前へ膝をついている。
「お主らが、こんな……すまぬ。すまぬ……」
「いいえ。お守りできて、何よりです」
自分の傷より、主の無事を喜んでいる。
その健気さが、かえって見ている者の胸を抉った。
医務区画の入口で、朱音が立ち尽くしていた。
顔から血の気が引いている。
俯瞰映像を見ながら、彼女は指示を出し続けた。
右へ。左へ。下がれ。
その声で動いた者たちが、今、目の前で血を流して横たわっている。
「……うちが、指示を出したから」
朱音の唇が、わずかに動いた。
それ以上、言葉が続かなかった。
撃つと決めることと、誰かを撃たせること。
守ると誓うことと、守るために誰かを危険へ向かわせること。
その重さの違いを、朱音は初めて自分の身で知った。
「陸の病院では」
朱音が掠れた声で言う。
「あかんの? こんなに、ようけ怪我して……財団の病院とか、あるんやろ?」
「できぬ」
ツクヨミは静かに首を振った。
「この港は、すでに敵に知られた。長く留まれば、次はさらに多く来る。逢魔の医療施設へ移す時間もない」
寝台のセラフたちを見渡す。
「この子らを陸へ散らして預ければ、点在したところをミルメクスに一人ずつ狙われる。わしには、守りきれぬ。それに、この子らの身体は人と変わらぬが、頭の奥にだけ、わしと繋がるための造作が入っておる。病院の検査は、それを見逃さぬじゃろう。戸籍も身元もない娘たちが、傷を負うて記録に載る。そこから敵が辿れば、関わりのない者まで巻き込みかねぬ」
陸には置いていけない。
船内で応急処置を続けながら、コクヨウ自身の設備で完全に癒すしかない。
ツクヨミは苦しげに目を閉じた。
やがて、決断した声で言う。
「目的地を決定する。――カルナへ向かう」
「カルナ?」
佐紺が聞き返す。
「お主らがチャレンジャー海淵と呼ぶ海の底に、古い船渠がある」
ツクヨミは言った。
「カルナなら、この子らを完全に癒せる。船の傷も、根本から直せるはずじゃ」
「行ったことがあるんですか」
「うむ。三年前、わしらが目覚めた場所じゃ」
ツクヨミは、わずかに目を伏せた。
「わしも、セラフたちも、カルナの中で眠っておった。目覚めたあと、船体の状態を整え、そこから海へ出たのじゃ」
「では、設備についても分かっているんですね」
「今のわしが知っておるのは、目覚めてから見た範囲と、船に残された記録だけじゃ」
ツクヨミは、小さく首を振った。
「一万三千年前、あの場所で何をしておったのか。誰がカルナを造り、どのように使っておったのか。その記憶は、わしにも残っておらぬ」
それから、傷ついたセラフたちへ目を向ける。
「じゃが、治療設備と船渠が、三年前にはまだ動いておったことは確かじゃ。今も無事であれば、この子らを助けられる」
「三年間も、どうして戻らなかったんですか?」
「必要がなかった。それに、カルナは最後の退避場所じゃ。出入りを重ね、所在を知られる危険は冒したくなかった」
ツクヨミは、静かに言った。
「じゃが、今は戻るべき時じゃ」
コクヨウは、舳先をはるか南の深海へ向けた。
傷ついた仲間と、立ち尽くす少女たちを抱えて。
黒い船は、三年前に眠りから目覚めた場所――自らの記録に残された古い帰港地を目指し、夜明けの海を静かに南下していった。