文字
行間
背景

第一章 誰も帰さない

空席

用意された部屋は、一流ホテルのスイートのようだった。

広いベッド。海に面した大きな窓。クローゼットには、なぜかぴったりのサイズの着替えが揃っていた。袖を通すまでもなく、肩幅も丈も自分のものだと分かる。誂えたように合っている。それが気味悪いのか有り難いのか、ミナトにはもう判断がつかなかった。

眠れないだろうと思っていたのに、ベッドに横になった途端意識が落ちた。それだけ消耗していたらしい。

夢は見なかった。あるいは見たのに覚えていないだけか。

目が覚めると窓の外は一面の海だった。陸地はどの方角にもない。空は晴れていて、海面が朝の光で銀色に砕けていた。

ミナトはしばらくその光景をベッドの上から見ていた。

現実感がなかった。

昨夜まで自分は横浜の裏道にいた。切れた街灯の下を歩き、倉庫街で得体の知れない男たちに追われ、銀色の少女に助けられた。その続きとして目覚めた朝が、これだ。

水平線まですべて海。

ミナトはベッドを降り窓へ近づいた。窓の横に外へ出られるガラス扉があることに気づく。鍵はかかっていなかった。

少し迷ってから扉を開けた。

冷たい海風が部屋の中へ流れ込んでくる。潮の匂いがした。都会の海辺で嗅ぐものよりずっと濃く、ずっと生々しい。ミナトはバルコニーへ出た。

足元には黒い船体。

その向こうに、果てのない太平洋が広がっていた。

ただ広い、という言葉では足りなかった。視界の端から端まで海だった。どこを見ても陸地がない。ビルも、橋も、港のクレーンも、灯台も、人の作った目印が何一つない。朝の光を受けた水面だけが、どこまでも続いている。

海は青い、というより深かった。

表面は銀色にきらめいているのに、その下には底の見えない黒が沈んでいる。波がゆっくりとうねり、巨大な生き物の背中のように上下していた。空は高く、雲は遠く、船はその真ん中にぽつんと浮かんでいる。

ミナトは手すりに触れた。

冷たい。

そして初めて胸の奥が少し震えた。

怖い、だけではなかった。

すごい、と思った。

自分が今まで見てきた世界は、駅と職場とコンビニとアパートの間に収まっていた。どれもこれも、徒歩か電車で繋がっている場所だった。逃げようと思えば、どこかの道へ出られる。誰かのいる場所へ戻れる。

だがここには道がない。

どこにも逃げ道がない。

ミナトは手すりの向こうを見下ろした。船腹の下で波が白く砕けている。高さはビルの何階分にあたるのだろう。仮にここから飛び込めたとしても、海面に叩きつけられた時点で無事では済まなそうだ。

運よく海面への衝突を切り抜けたとしても、その先がない。

陸は見えない。方角も分からない。水温も、潮流も、距離も分からない。スマートフォンは圏外で、助けを呼ぶ手段もない。泳げばどうにかなる、などという距離ではない。

プールの二十五メートルとは違うのだ。これは世界そのものの大きさだった。

ミナトは手すりを握る指に力を込めた。

ここから逃げることはできない。

船を出るということは、自由になることではない。太平洋に投げ出されるということだ。海は開けているのに、どんな壁よりも高く、どんな檻よりも広かった。

その事実を理解した瞬間、ミナトの中で昨夜からぼんやり残っていた選択肢が一つ、静かに消えた。

泳いで逃げる。

そんなものは最初から選択肢ではなかった。

ミナトはもう一度、水平線を見た。

恐ろしいほど広い。

そして息を呑むほど美しい。

美しい檻だ、とミナトは思った。

そう思った自分が、少しだけおかしかった。

スマートフォンの時刻表示だけが、律儀に動いている。午前七時十二分。

昨夜のことを順番に思い出す。契約解除。裏道。男たち。少女。八代。黒い船。逆光のモニター。左腕が影に沈んでいた人影。

――事情は明日、直接話すと言っていた。

今日がその「明日」だ。

朝食は昨夜のラウンジに用意されていた。

長いテーブルに三人分の席。空いた三脚はそのままだった。

給仕はメイドたちが務めた。それは完璧な――いや、完璧を目指してわずかにずれた給仕だった。

「本日のメニューは、『朝からガッツリ満足プレート』でございます」

「…………はい?」

「ネットの人気レシピ、第一位でございます」

深々と頭を下げるメイドの隣で、別のメイドが紅茶を注いだ。カップの角度を直し、もう一度直し、四度目まで直してから、満足げに砂糖壺をテーブルへ置いた。ごとり、と重い音がした。

佐紺とミナトは、その一連を黙って見ていた。

朱音がフォークを持ったまま固まっている。

「……なんなん、この感じ」

「一生懸命ではあるのですが」と佐紺。

「うん。一生懸命なのは伝わる。伝わるけど」

朱音は出された皿を見下ろした。盛り付けは雑誌の写真のように美しく、しかし量が明らかに常識を超えていた。

「これ、力士の朝ごはんやん」

「残してもよろしいのでは」

「あかん。あの顔見てみ。残されへんやろ、あんな期待した顔されたら」

扉の脇で給仕のメイドたちが祈るような顔でこちらを見守っていた。

朱音は観念して食べ始め、一口目で動きを止めた。

「……おいしい」

「よかったです」

「こんな状況でおいしいもん食べさせてくる方が、よっぽど怖いねん」

そう言いながら二口目を口に運んでいた。

食事が一段落したところで、佐紺が口を開いた。

「ところで。皆さん、昨夜は眠れましたか」

「……一瞬で落ちたわ。悔しいけど」

「俺もです」

「私は、少し調べものをしてから寝ました」

佐紺は足元に置いた工具箱を軽く叩いた。

「部屋の電気ポットと、テレビを分解してみたんです」

朱音が咽せた。

「な、なにしてんの」

「中身を見たかったので。結論から言うと、どちらも市販品でした。それも高級機種です。型番も製造番号もある。改造の痕跡もない。コンセントの電圧も測りましたが、ごく普通の百ボルトでした」

「……普通なんや」

「ええ。普通でした。――そこまでは」

佐紺は湯呑みを置いた。

「ただ部屋の配線が妙です。壁のコンセントを外して裏を覗きました。使われている部材自体は規格品です。しかし引き回し方が――どう言えばいいのか。日本の電気工事士の仕事ではありません。海外の規格とも違う。かといって素人の雑な仕事でもない。むしろ恐ろしく整然としているんです。ただその整然さの基準が、私の知っているどの世界のルールにも当てはまらない」

「……どういうこと」

「例えるなら」

佐紺は少し考えた。

「将棋の駒で、完璧に理に適ったチェスを指されているような感じです。道具は見覚えがある。けれど従っている法則が違う」

淡々とした口調だった。だが佐紺が湯呑みを持ち上げたとき、湯呑みの茶の表面に、微かな波紋が広がった。指先がわずかに震えている。

朱音がそれに気づいた。

「……西園寺さん。手、震えてへん?」

佐紺は自分の手を少し意外そうに見た。

「ああ。本当だ」

隠す様子もなく彼は言った。

「怖いんですよ、これが。正体の分からないものは、いつだって怖い。配電盤を開けて、中身が想像と違っていたときの、あの感じ。背筋が冷える」

それから、ふっと口元が緩んだ。

「ですが――同じくらい、見たくてたまらない。この船がどういう理屈で出来ているのか。それが分かるまでは、たぶん私は帰れません。帰してもらえるとしても、です」

自分で言って、佐紺は少し驚いたような顔をした。

「……おかしいですね。連れてこられた身で、自分からもっと見せろと言っている」

「かわっとるわ、この人」

朱音が呆れた。

「うちらと同じ船乗っとるとは思われへん」

「職業病、ですよ」

佐紺は手元に置いた工具箱に視線を落とした。触れはしない。ただ長年使い込んできた重みがそこにあることを、目で確かめるように。それだけで彼の肩から硬さが抜けた。

「分からないものを、分からないままにしておけない。それで食ってきたので」

短い沈黙があった。

「……わたしも、調べたで」

朱音が小さく手を挙げた。

「家具。全部ひっくり返した。盗聴器とかカメラとか仕込まれてたら嫌やから」

「ありましたか」

「なんもなし。そのかわり、裏のプレート見たら全部ヨーロッパの超高級ブランドやった。お父さんが昔、家具のカタログ眺めるのが好きで……」

朱音は一瞬だけ言葉を切って続けた。

「――とにかく、本物やと思う。一脚で車が買えるような椅子が客室に普通に置いてある。けど家具そのものはどこもおかしなかった」

「ミナトさんは」

「俺は、部屋そのものを見ていました」

二人がミナトを見る。

「壁や天井に、継ぎ目らしいものが見つからなかったんです。昨夜、岸壁から船を見上げたときも、船体に鋼板の境目が見えなかった。ただ――」

ミナトは一度言葉を切った。

「俺は造船も建築も専門ではありません。見つけられなかっただけかもしれない。それがおかしいことなのかまでは、断定できません」

「いえ。少なくとも、電気設備の側から見ればおかしいです」

佐紺が答えた。

「どんな建物でも船でも、設備には点検と交換が必要です。配線を通す空間や、機器へ手を入れるための点検口がある。内装で隠すことはできますが、完全になくすことはできません」

「でも、この部屋には見当たらなかった」

「ええ。私も探しました」

佐紺は少し眉を寄せた。

「コンセントの裏までは普通なんです。使われている部材も、電圧も、日本で流通しているものと変わらない。しかし、そこから先の配線がどこへ続いているのか分からない。壁の中へ入った途端、痕跡が消えてしまう」

「消える?」

「本当に消えているわけではないのでしょう。ただ、私の知っている工事の方法では追えないんです」

佐紺は自分の説明に納得できていないように、しばらく黙った。

「危険な施工というわけではありません。むしろ整いすぎている。けれど、何を基準に整えられているのか、私には説明できない」

「わたしが見た家具は、全部普通やったで」

朱音が口を挟んだ。

「メーカーも分かるし、品番もある。椅子も棚も、外から買うてきた本物やと思う」

「家電も同じです」と佐紺。

「テレビも電気ポットも市販品でした」

ミナトは、三人の話を頭の中で並べた。

家具と家電は、人間の世界で作られた普通の製品。

だが、それらを収めている壁や床や船体には、組み立てた痕跡がない。

「……置いてある物は普通なのに、置いてある場所だけが普通じゃない」

朱音が言った。

「たぶん、そういうことです」

ミナトは頷いた。

「人が暮らせるように、家具や家電だけを外から持ち込んだ。でも、この船そのものは――我々が知っている方法では作られていない」

佐紺が天井を見上げた。

「少なくとも、私の知っている工事の延長線上にはありません」

「人間の部屋を、そのまま別の何かの中に作った……みたいな?」

朱音が自分で言って、小さく身震いした。

「なんやそれ。三人で考えたら、一人で考えとるときより怖なったやん」

「ですが、形は少し見えてきました」

ミナトは言った。

物は人間の世界のもの。

器だけが、別の理屈でできている。

短い沈黙のあと、佐紺が湯呑みを置いた。

「……もう一つ、確認しておきたいことがあります」

「昨夜、黒金さんを襲った者たちについてです。覚えている範囲で構いません。動きや、音や、臭い。何か普通の人間と違うところはありませんでしたか」

ミナトは記憶を辿った。

「足音が、ずっと同じ間隔でした。全力で走っているはずなのに、息遣いが聞こえなかった。それから、倒された後に、消えました」

「消えた?」

「輪郭が崩れて、白い煙みたいなものになったんです。オゾンのような臭いもしました」

佐紺は、すぐには答えなかった。

工具箱の留め金に指を置き、考えるように一度だけ撫でる。

「機械だった、と考えるのが一番分かりやすい。ですが、死体も破片も残らず消えたとなると、それだけでは説明できませんね」

「見た目は、普通の人やったんやろ?」と朱音。

「はい。整いすぎていること以外は」

「この船と、反対やな」

朱音の言葉に、ミナトと佐紺が同時に彼女を見る。

「反対?」

「この船は、中に置いてあるもんは普通やけど、船そのものがおかしいんやろ」

朱音は指を一本立て、それからもう一本を立てた。

「ミナトさんを襲うたやつは、外から見たら普通の人間。でも、中身がおかしい」

ミナトの頭の中で、二つの像が並んだ。

継ぎ目のない黒い船。

人間の顔をした、何か。

「……外と中が、逆なんだ」

「ええ」

佐紺がゆっくり頷いた。

「ただし、同じ技術で作られているとは限りません。外見が逆だからといって、同じ存在の仲間とも、敵とも断定できない」

「分かってることは?」

朱音が聞く。

「説明できないものが、少なくとも二つある」

ミナトが答えた。

「一つは俺を襲った。もう一つは、俺を助けて、この船へ連れてきた」

「せやけど、助けた理由はまだ分からへん」

「はい」

ミナトは否定できなかった。

佐紺が天井へ視線を向ける。

「ですから今の段階では、この船が丁寧に扱ってくれているから安全だとも、正体が分からないから敵だとも、決められません」

「結局、保留か」

「材料不足です」

佐紺はそう言ってから、わずかに苦笑した。

「電気工事なら、測れば数字が出るんですがね。今回は、測る場所すら分からない」

「ほな、調べるしかないな」

朱音が言った。

「三人で、分かるとこから」

その言葉に、ミナトは小さく頷いた。

一人で部屋の壁を叩いていたときより、今の方がずっと頭が動いている。一人では「継ぎ目がない」で止まっていた。佐紺の配線と、朱音の家具と、自分の壁。三つを並べて初めて「器の側だけが異質だ」という形が浮かび上がった。

ここ数年間、ミナトはたいてい一人で障害と向き合ってきた。

誰もログを見ず、誰も相談に乗らず、ただ原因だけを求められる。画面の前で灰色の夜を一人で潰していく。それが仕事だと思っていたし、自分にはそれくらいしかできないと思っていた。

だが今は違った。

朱音が家具を見てくる。佐紺が配線を読む。自分は壁とシステムを見る。三つの視点を並べると、一人では見えなかった形が浮かんでくる。

恐ろしい状況なのに頭が動く。

それが少しだけ嬉しかった。

ミナトは昨夜の少女の左腕を思い出していた。胴から引き離されるときの石を割るような低く乾いた音。

削り出した黒い船。引き剥がされる石の腕。

二つの感触が頭の中で同じ場所に並ぼうとするのをミナトは静かに感じていた。

――同じものの、裏表。朱音の言った「反対」が、その並びを後ろから押していた。

言えなかった。腕のことは、まだ、誰にも。

午前中、三人は船内を歩いた。

禁止はされなかった。それどころかエティンが一通り案内までしてくれた。レストラン、シアター、図書室、温水プール。豪華客船として完璧な設備が、他に乗客のいないまま、磨き抜かれて静まり返っている。

歩きながら、ミナトは昨日からの観察を裏付けるものばかりを拾っていた。客室に置かれた調度は市販品だったのに、廊下に作り付けられた照明や空調の吹き出し口には、メーカーの刻印が一つもない。買ってきた物と、最初からこの船の一部である物。その境界線が見れば見るほどはっきりしていく。

立入禁止と言われたのは、船体下部へ降りる区画だけだった。

その階段の前にだけ、メイドが四人立っていた。

船内のどこへ行っても、メイドたちは一人か、せいぜい二人で、にこやかに給仕してくれる。なのにこの何の変哲もない下り階段の前だけ、やけに人数が多い。給仕の笑顔ではあるのだが、明らかに通路を塞いでいた。

「下は動力部でしょうね」

佐紺は、耳を澄ますように階段の暗がりへ顔を向けた。

「ただ妙です。ここまで歩いて機関の振動を一度も感じない。これだけの船体を進めているのに、です」

「電気推進でもですか」

「電気でもモーターは回ります。回れば振動は出ます。しかしこの船は――」

佐紺は足元の大理石を見た。

「あまりにも静かすぎる」

ミナトは、降りてはならないと言われた階段の闇を、もう一度だけ見下ろした。何も見えない。なのに底の方から、何かが静かにこちらを見上げている気がした。

分からないことが増えていくばかりだった。

昼を過ぎ午後になっても「直接」の話は来なかった。

窓の外で日が傾き始めていた。

夕刻、エティンがラウンジに現れ、深く一礼した。

「お待たせいたしました。――ツクヨミ様が、お見えになります」

三人は顔を見合わせた。

ツクヨミ。

初めて聞く名だった。けれど誰のことかと、聞き返す者はいなかった。

廊下の奥から、複数の足音が近づいてくる。

朱音が椅子ごとわずかに後ろへ引いた。

「……大勢で来よるやん」

佐紺が立ち上がった。工具箱を床へ置き、朱音を庇うように一歩前へ出る。迷いはなく、考えるより先に身体が動いたように見えた。

ミナトも立ち上がり、その隣に並んだ。足が震えているのが自分で分かる。

もし本当に誰かが選ばれる夜なのだとしたら、それは自分でいい、と思った。理由は探すまでもなかった。

隣で真っ先に前に出た男と、その後ろの少女を、自分も少しは守る側に立ちたかった。立てるかどうかは別として。

扉が、静かに開いた。