第一章 誰も帰さない
三
招集
その答えの意味を考える前に、廊下の奥から別の足音が近づいてきた。赤いレザーのナース服を着た長身の女性だ。
ミナトは一瞬だけ言葉を失った。
ナース服、形だけ見ればそう分かる。だが赤いレザーという時点で、ミナトの知っている医療現場からは大きく外れている。病院というより、舞台衣装か、戦闘服に近い。
しかしその違和感を口にする前に、女性の鋭い視線がまっすぐミナトの右肩に止まった。
「お怪我をされていますわね」
その一言でようやく我に返った。傷の場所を見ただけで言い当てられた。
「ダスラと申しますわ。医務室へどうぞ」
ダスラはそれだけ言って、奥へ歩き出す。
三つ編みの女性が、一歩前へ出た。
「私はエティンと申します。以後、ミナト様の船内でのご案内を務めさせていただきます」
二人の名前を頭に入れながら、天井のシャンデリアを見上げた。豪華な内装も、整列したメイドたちも、一目で打撲を見抜いた赤いレザー服の女性も、何一つ説明がつかない。それなのに不思議と懐かしい。
あの少女も、この船のどこかにいるのだろうか。
◇
処置をしてもらい医務室を出ると、右肩の痛みがほとんど消えていた。腫れていたはずの肩が、数日かかるはずの回復を、数分で終えたように軽い。包帯も湿布もない。ダスラが小さな機械から細い光を当てただけで熱も腫れも引いていた。
光を当てられているあいだ、ミナトはその器具の形を見ていた。見覚えのある医療機器のどれとも違う。なのに危険な感じはしなかった。むしろ傷を丁寧に読み取られているような奇妙な安心感があった。
廊下でエティンが待っていた。
「お体の具合はいかがですか」
「……嘘みたいに治りました」
「よかったです」
驚いた様子もなく当然のことのように微笑む。この船ではそれが普通らしい。
廊下を歩きながらミナトはエティンの背中を見た。三つ編みが揺れ、足音が静かだ。船全体に漂う静謐な空気の一部みたいな歩き方だった。
「他に人はいるんですか」
「はい。今夜、お二人がいらしています」
「俺と同じように連れてこられたんですか」
「はい」
それ以上は言わなかった。
エティンが一つの扉の前で止まる。
「こちらです」
そこは広い部屋だった。天井が高くシャンデリアの光が柔らかく落ちている。窓の外は暗い海。港の明かりが僅かに見える。中央に長いテーブルがあり、椅子が六脚並んでいた。
そのうち二脚に人が座っている。
一人は少女だ。白に近いベージュのブレザー、チェック柄のスカート――どこかの学校の制服を着崩しもせず身につけ、胸元のリボンだけが赤い。ミナトが入った瞬間、射るような目をこちらへ向けた。警戒の色がはっきり混じっている。
もう一人は三十過ぎくらいの男性で、青いつなぎの作業着姿のまま、膝の上に工具箱を置いていた。現場帰りのはずのつなぎが、不思議なほど汚れていない。こちらは一瞥して、すぐテーブルへ視線を戻す。
残りの四脚が空いている。
「ミナト様、どうぞ」
エティンが椅子を示し、ミナトは六脚のうちの一つに座った。エティンは一礼して下がり、扉の外で静かに控える。
沈黙が落ちた。
少女がミナトをじっと見ている。品定めとも違う、もっと根本的な「信用できるかどうか」を測る目だった。
「……あんたも、いきなり連れてこられたん?」
関西弁だった。抑えてはいるが、声にとげがある。
「そうです」
「どこから連れてこられたん?」
「横浜です。帰宅途中に」
少女はわずかに目を細め、それ以上は聞かずに視線をテーブルへ戻した。
作業服の男性が静かに口を開く。
「西園寺佐紺と申します。電気工事士をしています」
丁寧な言葉に妙な品がある。職業と話し方の落差が少し奇妙だった。膝の上の工具箱に向いたミナトの視線に気づいて、佐紺は付け加える。
「現場から、ほぼそのまま連れてこられまして。道具だけは持たせてくれと、それだけは譲りませんでした」
佐紺の右手は、工具箱の留め金の上に軽く置かれていた。
よく分からない場所へ放り込まれた人間が、自分の名前と職業を即座に名乗れたことに、ミナトは少しだけ感心した。たぶんこの人は何を取り上げられても、この箱さえあれば自分が誰なのかを見失わないのだろう。そう感じた。
「黒金ミナトです。ソフトウェアエンジニア……いえ、元、です。今日契約を切られました」
「それは災難でしたね」
同情ではなく、事実を受け取った声だった。
少女がこちらを見る。
「早川朱音。十七。高校生や」
それだけだった。自己紹介というより確認作業のような言い方だ。少し間を置いて独り言のように付け足す。
「学校からの帰り道やった。ほんで気づいたら、降りられへん車ん中や。誘拐やん、普通に」
三人で、しばらく黙った。
制服。作業着。スーツ。誰一人、旅支度などしていない。日常の続きの恰好のまま、それぞれ別の場所からこの豪華な部屋へ運ばれてきた。その不釣り合いがどんな言葉よりも雄弁に状況を語っていた。
エティンが一度だけ戻り、テーブルに飲み物を並べてまた下がった。ホットコーヒーと紅茶と緑茶。それぞれに小さな菓子が添えられている。朱音は手をつけない。佐紺は緑茶を一口飲んで、工具箱の中を確認している。
ミナトはコーヒーを手に取った。一口飲む。ちゃんと苦い。当たり前のことに少しだけ救われた。
頭の中はまだ整理できていない。あの銀髪も、黒い槍も、炎の中の小さな背中も覚えている。見間違いではない。ただあの声だけは自信がなかった。本当に聞いたのか。混乱した頭が作り出したものなのか。境目がどうしても曖昧だった。
「……この部屋、椅子が六つありますね」
佐紺が言った。独り言のような声量で全員に届いていた。
朱音が顔を上げる。
「気づいてた。わたしも」
「我々は三人。ということは」
「残りの三人は、まだ来てへんか」
朱音が空席を見る。
「……それとも、来られへんかったか」
室内が静まる。波の音がかすかに聞こえた。
テーブルの上で組んでいた朱音の指が、いつの間にか片方の手首を強く握っている。
「やとしたら、来られへんかったその三人は今、どこにおるん」
朱音の声が少し掠れた。
「――なんてな。考えすぎやんな、うん。最初から三人しか呼ぶつもりがなかったんかもしれへん。予備の椅子やろ、どうせ。レストランかて客より椅子多いし」
そう言ってから、朱音は自分の声の湿りに気づいたらしい。ぱっと顔を上げ、わざとらしく背もたれに寄りかかり笑ってみせた。けれどその目だけがもう一度、空席の方へ滑っていく。
「……予備なら、数は適当でもいいはずです」
佐紺が、湯呑みを置いた。
「ですがこの部屋は、最初から六人分として整えられているように見えます」
朱音の笑みが、固まった。
「……佐紺さん。そういうとこやで」
「すみません。つい」
ミナトは、カップの中の黒い液面を見ていた。
言うべきか、迷っていた。口にすれば、この場の不安を確実に一段深くする。だが、二人は知らないまま怯えている。知った上で怯える方が、まだましだ。障害対応と同じだった。悪い情報ほど、先に共有する。
「……あの。俺からも、一つ、話しておくことが」
二人が、こちらを見た。
「さっき、帰宅途中に連れてこられたと言いましたけど、正確じゃありません。俺は――襲われたんです。ここに来る直前に」
「襲われた?」
「スーツの男が、三人……いや、四人。倉庫街に追い込まれました。ただ……あれは、たぶん、人間じゃなかった」
朱音の顔から、作りかけの笑いが消えた。
「人間やない、って」
「腕が、変形したんです。掴むための、道具みたいな形に。……信じてもらえないのは分かってます。俺も、見てなければ信じない」
佐紺は、笑わなかった。工具箱の留め金の上で、指が止まっていた。
「……それで、あなたは、どうやって」
「助けられました。……銀色の髪の、小さい女の子に」
「……は?」
「小学生くらいに見えました。その子が、三人を、素手で。四人目は……車で突っ込んできて、それも、その子が止めました。どうやって止めたかは……うまく、説明できません」
言いながら、ミナトは自分の説明の穴だらけさに、うんざりしていた。腕を引きちぎって槍にしたことも、路面が割れたことも、言えなかった。言えば、この話ごと信じてもらえなくなる。それに――炎の中で聞こえた気がした、あの一言だけは。あれだけは、誰かに渡す言葉ではない気がした。
「……つまり」
佐紺が、静かに言った。
「我々を連れ去った側とは別に、我々を襲う側が、いる。そして、この船は――少なくともあなたを、襲う側から守った」
「そう、なります」
朱音は、しばらく黙っていた。それから、空いた三つの椅子を、もう一度見た。
「……ほな、来られへんかった三人て。冗談やなくて、ほんまに」
誰も、その先を言わなかった。
「そして、自由に帰していただける雰囲気でもなさそうですね」
「……もう完全にそういうやつやん」
否定できなかった。豪華な設備、整ったスタッフ、丁寧な言葉遣い。それでいて、理由も告げない。スマートフォンは圏外。窓の外の暗い海。三人とも、同じ檻の中にいる。
ただミナトの頭の片隅には、まだあの残像が残っていた。味方かどうかは分からない。あの光景を見た、というだけだ。
そのとき、壁の一面が静かに光り始めた。
壁面いっぱいの大型モニターが起動していく。ゆっくりと輝度が上がり、同時にノイズが走った。映像が乱れ、また戻る。
暗い画面だった。
強い逆光の中に、椅子に座った人物の輪郭だけが映っている。顔は見えない。体格も、年齢も、性別も分からない。長い髪らしきものが時折わずかに光を反射した。それは銀色にも見えた。
ミナトの目が、一点に吸い寄せられた。
人物の左側だけが、不自然なほど深い影に沈んでいるのだ。逆光のせいではない。光の当たり方からして、そこにだけわざと闇を被せたような不自然さがあった。まるで左側を見られたくないかのように。
まさか、と思う。だがその「まさか」を最後まで言葉にする前に画面にノイズが走り輪郭が揺れた。
朱音が椅子を引く音がした。
「……何、あれ」
「思っていたより、直接的ですね」と佐紺。
佐紺の右手が工具箱の留め金へ戻っていた。
スピーカーから音声が流れ始める。ノイズが混じり、船内の反響を含んで低くこもった声になっていた。
『……聞こえておるか』
三人は答えない。
逆光の人物がわずかに身じろぎした。
『急な招集となったことを詫びよう』
朱音が小声で呟く。
「謝るなら、まず顔見せてから言うてほしいんやけど」
『そなたらには、しばらくこの船に留まってもらう』
朱音の表情が固まった。
『帰還は、当面認められぬ』
「……これ、絶対あかんやつや」
「典型的すぎて、かえって判断に困りますね」
佐紺が静かに返す。
モニターの向こうで、影がわずかに首を傾げた――ようにミナトには見えた。
『お主らの身は、わしが守る』
「そう言うてる本人が、一番怪しいんやけど」
朱音の声に、隠しきれない怒りが滲み始めている。
ミナトはモニターを見つめたまま黙っていた。声は低く歪んでいる。顔も見えない。普通なら、ただ不気味なだけのはずだった。
なのにその歪んだ声の奥に、何かが沈んでいる気がした。
耳の奥に残っている、あの小さな響き。長い時間の果てに辿り着いたというあの音と、どこかで重なろうとしている。
確信にはほど遠かった。重なりかけてはノイズに崩される。それでも目だけは画面から離せなかった。
影が続ける。画面が再びノイズで揺れた。
『事情は明日、わしが直接そなたらの前へ出て話す。それまでは――』
音声が一瞬途切れ、また戻る。
『……ゆるりと、休んでおいてくれ』
それだけ言って、モニターは暗くなった。
部屋に、静寂が戻る。
最初に動いたのは朱音だった。立ち上がり、倒れかけた椅子を手で押さえる。
「終わった。わたし、終わった」
薄っすらと涙目になっている。
ミナトは何と言えばいいか分からなかった。励ます言葉も、根拠のある慰めも持っていない。
だから、当たり前のことだけを言った。
「……まだ、誰も何もされてません。それだけは、本当です」
朱音が顔を上げる。
「それ、慰めになってへんで」
「すみません。これくらいしか」
「そうです。まだ終わっていませんよ」と佐紺。
「終わったやろ。さっきの見たやろ? 顔も映さへん。声は加工してある。帰さへん。何をさせる気かも言わへん。完全にアウトやん。デスゲームやん、これ」
「確かに、誠実な説明とは言い難いものでした」
「なんでそんな冷静なん」
「冷静でないと、判断を誤りますので」
そう言いながら佐紺の指は、いつの間にか工具箱の留め金を、かちり、かちりと、小さく鳴らしていた。本人も気づいていない様子だった。冷静の下に別のものを押し込めているのだろう。
朱音は窓へ駆け寄った。暗い海。さっきまで見えていたはずの、陸の灯りが一切ない。
「……海や。どこまで見ても、真っ黒な海や」
「出航に気づきませんでしたね。これだけの船体が離岸すれば多少の振動はあるはずですが」
佐紺は足元を見た。
「何も、感じませんでした」
朱音は扉へ向かい、ドアノブに手をかけた。
「待ってください」
ミナトは、扉の上を見た。
「今、外に出るのはたぶん悪手です」
「なんで分かるん」
「この部屋に入る時、廊下の天井にカメラが見えたんです。あれはこっちを見ていませんでした。廊下の奥を向いていた」
朱音が固まる。
「つまり?」
「少なくとも、俺たちだけを監視するための配置じゃないように見えます」
「そんなんどうでもええ! とにかく逃げるんが先や!」
ドアはあっさり開いた。廊下の先には数人のメイドが姿勢よく控えていた。目が合う。メイドたちはにこりと微笑んで頭を下げた。
「何かご入用でしょうか、朱音様」
「……い、いえ。なんでもない、です」
朱音は扉をパタンと閉め、戻ってきてテーブルに突っ伏した。
「あかん。外も完全に固められてる」
「監視というより、給仕待機のように感じますが」
「おんなじやろ!」
ミナトはコーヒーカップを両手で包んだまま、天井の角を順番に見ていた。
「もしあるとしたらですが、……カメラはたぶん二箇所。左上の角と、入口の扉の上。画角的に、この部屋全体をカバーできる配置です。死角は、窓際のあのソファの裏だけですね」
朱音が顔を上げた。
「……あんた、なに調べてるん」
「知らない施設に入ると、出入口と設備の位置を確認してしまうんですよ」
「それ、今役に立ってるん?」
ミナトは少し考えた。
「逃げ道を探すなら、窓際のソファの裏が一番カメラに映りにくい。役に立つかどうかは、これから次第です」
朱音がぱちりと瞬きをした。
「……あんた、見た目より使えるタイプ?」
「見られていることに気づくのは、少し得意です」
その答え方に、朱音はなぜか毒気を抜かれた顔をした。
ミナトは少し迷ってから続けた。自分でも柄ではないと思いながら。
「……提案、いいですか。今夜のうちに手分けして、できることをやっておきませんか」
二人がこちらを見る。
「俺は部屋の構造を調べます。継ぎ目とか、配線とか、この船が何でできてるのか。佐紺さんは……たぶん、設備を俺より詳しく読めると思いますが」
「ええ。電気周りは見ておきましょう」
佐紺が頷いた。
「分電盤の位置くらいは、把握しておきたい」
「朱音さんは」
「……わたし?」
「家具とか、部屋の中。盗聴とか、隠しカメラとか。気にならないですか」
朱音はきょとんとしてから、ふっと口角を上げた。
「なるなる。めっちゃ気になる。よっしゃ、わたし部屋ひっくり返す担当な」
怖さが消えたわけではなかった。窓の外は相変わらず黒い海で、明日が何なのかも分からない。
ただ何もできずに朝を待つのと、何か一つでも手を動かして待つのとでは、夜の長さが、まるで違う気がした。
三人のあいだに、まだ信頼と呼べるものはなかった。けれど同じ檻を別々の角度から測り始めた三組の目が、初めて同じ一点に揃った。それだけは確かだった。
しばらくしてエティンが入室し、三人をそれぞれの客室へ案内した。廊下を歩きながら、朱音が小さく呟くのが聞こえた。
「……明日、か。わたしら、どうなってしまうんやろか」
誰もそれには答えられなかった。
ただ、閉じた扉の列だけが、答えの代わりのように、三人の背後へ続いていた。