第一章 誰も帰さない
五
庇護
最初に入ってきたのは小柄な少女だった。
銀色の髪。同じ色の瞳。太く短い眉。黒い巫女服を連想させるようなワンピース。そして、裸足。
その細い首には、あの夜と同じ武骨な鉄の首輪が嵌まっていた。途中で断ち切られたような、長い鎖が床まで垂れている。可憐な少女の装いの中でそこだけが重く、場違いに沈んでいた。
ワンピースの袖口から覗く左腕は、右腕とはまるで違っていた。
細さは少女の腕のままだ。けれどその表面は人の肌の滑らかさがない。荒く削った彫刻のようにごつごつと角張り、ところどころに黒い石の地肌が露出している。肌色と黒曜石のような黒がまだらに混ざり合い、境目には細かなひびが走っていた。
作り直したばかりの腕。
そう思った瞬間、ミナトの脳裏に昨夜の光景が蘇った。胴から引き離された左腕。石を割るような低く乾いた音。漆黒の槍へと変わりトラックを貫いたあの腕。
今、目の前にあるものは治った腕ではない。
急いで形だけを戻した、まだ修復の途中の腕だと感じた。
だが三人の目を同時に引きつけたのは、首輪でもその左腕でもなかった。
少女の左頬から目の下にかけて痛々しい裂傷が走っている。左腕のひび痕と同じ黒い石が砕けたような色と質感で、まだ生々しく縁が黒く爛れていた。完治には程遠い、おそらく負ったばかりの傷だった。
その後ろにダスラが続き、エティンと数人のメイドたちが室内へ入って少女の背後に静かに並んだ。
張り詰めていた空気が行き場を失った。
身構えていた三人の前に現れたのは武装した何者かでも覆面の男たちでもなかった。ただ小さな少女が一人。それも顔面にひび割れのような傷を負い、こちらの剣呑な空気の方に戸惑っている。
朱音が、佐紺の背中越しに少女を見る。
「……誰なん?」
少女は三人の前まで歩み寄り立ち止まった。立ち塞がる形になっている佐紺とミナトを見上げわずかに首を傾げる。
「……なぜ、構えておる」
澄んだ、高い声だった。昨夜のモニターから流れた、低く歪んだ声とはまるで違う。
ミナトの耳は、その声を知っていた。
いや、声だけではない。昨夜、画面の中で不自然に影へ沈んでいた左腕。そして今、目の前の少女の左頬を走る黒い裂け目。あのとき胸をよぎった「まさか」が、今、目の前で輪郭を結んでいく。炎。引き剥がされた左腕。漆黒の槍。裸足。顔の傷。そして――首の鉄の輪。
全部が一つに繋がった。
「……あのとき、俺を助けたのは」
声が出ていた。
少女はミナトを見上げ少しだけ視線を逸らした。
「うむ。間に合ってよかった」
それで十分だった。昨夜の小さな背中と目の前の少女が、ようやく重なった。
朱音が佐紺の陰から出てくる。
「ちょ、ちょっと待って。整理させて。銀髪の、ちっさい子て――あんたの言うてた子やんな? ほんで、昨日のあの不気味な映像の主も――この子なん?」
「うむ」
少女はあっさり頷き、テーブルの端の椅子を引いて座った。両手を膝に置き、背筋をまっすぐにする。何かを始める前に姿勢を整える、儀式のような所作だった。
「わしが、お主らをここへ呼んだ。わしのことは『ツクヨミ』と呼べ。それが、わしの名じゃ」
三人は顔を見合わせてから、おそるおそる席に着いた。
だが朱音の目はさっきから一点に釘付けになっていた。
「……なあ。聞いてええ?」
恐る恐るツクヨミの首元を指す。
「その首の、ごつい輪っか。鎖もぶら下がっとるし。コスプレ……ってわけ、ちゃうやんな。めっちゃ重そうやし、痛くないん? それ」
軽い調子で聞いた。場をほぐすつもりも半分はあったのかもしれない。
ツクヨミは自分の首輪に軽く指を触れた。
「これは、外せぬ」
それだけだった。
「……外せへんの? 鍵なくしたとか」
「鍵では、ない。わしの意思でも外せぬ。ずっと、こうじゃ」
声に湿った響きはなかった。嘆くのでも強がりでもない。ただ当たり前にそこにある事実を述べる声。だからこそ朱音はそれ以上の言葉を続けられなかった。
軽く聞いたつもりが、軽くは返ってこなかった。
外せない、と言った少女の指がほんの少しだけ鎖に触れて――それから離れた。
「……そっか。ごめん、変なこと聞いて」
「よい。誰もが気になることじゃろう」
ツクヨミは小さく首を振った。その言い方がかえって寂しかった。
朱音はそれきり首輪のことには触れなかった。
「他にも聞きたいことが、めっちゃあるんやけど、椅子が六つあるやろ。来られへんかった三人は、どうなったん?」
「わしが集めたのはお主ら三人だけじゃ。残りの椅子は、ただの予備じゃ」
「なら昨日のあれ、なんやったん。顔も見せへん。声は低く歪んでる。逆光。あれ、どう見てもデスゲームの主催者やで」
「ですげーむ? なんじゃそれは?」
ツクヨミが眉を寄せる。本気で聞いたことのない言葉に出くわしたという顔だった。
「顔も見せへん。声だけ響く。帰れへん。どう考えてもアウトやろ」
「……すまぬが、本当に分からぬ」
「人を集めて、殺し合いさせるやつ!」
ツクヨミの動きが止まった。
「殺し合い? なぜわしが、お主らにそんなことをさせねばならぬ」
「あんたらが、それをさせる側やと思てたから、こっちは昨日から生きた心地せえへんかったんやけど!?」
ツクヨミはしばらく黙った。それからテーブルに視線を落とす。
「昨夜は、この腕の修復が終わっておらんかった。顔ももっと酷いもんじゃった。しかも衣も破れたままでの。あの姿のまま、お主らの前に出るわけにもいかぬ。じゃが、何も告げぬまま一晩待たせるのは、もっと嫌じゃった。せめて声だけでも、と思うたのじゃが」
ひび痕の残る左手を軽く持ち上げてみせる。
「映像が乱れるのは、後から付け足した船内の電気系統の不調じゃ。声が低かったのも、たぶん、それじゃろう」
「…………」
「不安にさせたなら、謝る。すまなかった」
ツクヨミは、ためらいなく頭を下げた。
その下げ方には立場を取り繕う計算も、形だけの謝罪の軽さもなかった。本当に悪いと思ったから頭を下げる。子供のように真っ直ぐな、それだけの所作だった。
朱音は呆気に取られた顔をした。
「……謝るんや」
「当然じゃ」
その声にはわずかな戸惑いが混じっていた。なぜ驚かれているのか本当に分かっていないらしい。
ミナトはそのすれ違いの形を頭の中でゆっくり裏返してみた。
昨夜、自分たちが「悪意の演出」だと読み取ったものは――全部、不器用な誠実さの裏返しだったことになる。顔を隠したのも傷を見せまいとしたから。声が歪んだのは間に合わせの配線のせい。帰さないのは……外に出せば殺されるから。
この少女はたぶん、嘘や演出という道具を最初から持っていない。
佐紺が静かに口を開いた。
「では、改めて伺います。あなたは――人間ではありませんね」
全員の視線が、ひび痕の走る左腕と、左頬の傷に集まった。
「うむ。わしは人間ではない」
あっさりとツクヨミは認めた。
「では機械、なのですか。アンドロイドのような」
「それも正確ではないの」
少し考えるように目を伏せる。
「今はまだうまく説明できぬ。人間ではない。それだけは確かじゃ」
「人間でもない、機械でもない。ほんなら何なん」
「それを話すには、少しばかり長くなる。……いずれ話そう」
誰もすぐには言葉を返せなかった。窓の外では、暮れた海の上に月が昇り始めている。音もなく進む漆黒の巨船と、目の前の少女。二つの間に何か根源的な繋がりがある気がしたが、その形だけが見えなかった。
朱音が頬杖をついた。
「……まあ、正体の話は後でええわ。なんでわたしらを集めたん?」
空気がわずかに張り詰めた。
ツクヨミはゆっくりと三人を見回す。
「お主らには、共通する性質がある」
「共通する……性質?」
「うむ。じゃが、その意味までは、まだわしにも掴めておらぬ」
それから視線をミナトへ向けた。
「昨夜ミナトを襲った者どもを、『ミルメクス』とわしらは呼んでおる」
「ミルメクス」
ミナトは繰り返した。整いすぎた輪郭。感情の入る場所そのものが欠けた目。捕獲に最適化された、あの手。
「わしがつけた名ではない。船の古い記録に、そう残っておった。誰が、どういう意味でつけたのかは――わしにも、分からぬ」
「彼らも――人間では、ないんですよね」
「うむ。人の姿に擬態して、街に潜んでおる。ミルメクスに捕まっても、通常は命を取られるわけではない」
ツクヨミは静かに言った。
「……佐紺さんの言うてた通りやん。外側だけ人間のやつ」
「じゃがもっと、悪い」
「悪いって」
「奪われるのじゃよ。『心の動き』を」
言葉を選ぶように、ツクヨミは続けた。
「喜ぶことも、悲しむことも、怒ることも。ある日を境に、ぷつりと抜け落ちてしまうのじゃ。身体は無事じゃ。飯も食う、歩きもする。じゃが――何にも、心が動かぬ。空っぽの器だけが、残る」
朱音の指が、テーブルの上で強く握られた。
その様子に気づいたのはミナトだけだった。
「何のために」と佐紺。
ツクヨミは少し黙った。
「それは――」
「ツクヨミ様」
低く静かな声が割って入った。背後に控えていたダスラが頭を下げる。
「今ここで、すべてをご説明になる必要はございません」
「じゃが」
「皆様は、まだ昨夜の今日でございますわ」
ダスラの鋭い目が三人へ向く。しかし拒絶の冷たさはない。
「お伝えすべきことはございます。ですが、順序を守るべきかと」
ツクヨミは目を伏せた。
「……そうじゃな」
三人へ向き直る。
「すまぬ。今はまだ、詳しくは話せぬ。じゃが、確かなことが一つある」
その瞳が、三人を順番に見た。
「お主らは、ミルメクスに狙われておる」
「なんで、わたしらが」
「まだ分からぬ」
「分からへんのに、連れてきたん?」
「うむ」
「こっちの都合も聞かんと」
「うむ」
「勝手すぎへん?」
「……その通りじゃ」
朱音が目を瞬く。
「また、あっさり認めるんや」
「嘘をついても意味がないからの」
「……わたしの家には、なんて説明したん」
朱音の声から、それまでの勢いが少しだけ消えた。
「家族、お父さんしかおらんのや。今は九十九財団の施設におるから、わたしは親戚の家で世話になっとるんや。けど、うちが急におらんようになったら、絶対心配する」
「陸のことは、八代……陸の者が手配しておる」
「手配って、何したん。お父さんは無事なん?」
「無事じゃ」
ツクヨミは迷わず答えた。
「明日、陸の報せが届く。お主の父の姿も見せられるはずじゃ」
「……ほんまに?」
「嘘はつかぬ」
朱音はしばらくツクヨミの顔を見つめていた。信じ切ったわけではない。だが、それ以上問い詰めても今は答えが増えないと判断したらしい。
「絶対やからな」
「うむ。約束する」
ツクヨミは朱音をまっすぐに見た。
「本来であれば、お主らの意思を確認すべきであった。それは分かっておる。じゃが、猶予がなかったのじゃ。昨夜の襲撃は、わしの想定よりもずっと早かった」
ミナトはひび痕の走る左腕を見た。説明より前に、同意より前に、自分の腕を投げてまで、この少女は駆けつけた。順序を守れと諫めるダスラの正しさより先に、ツクヨミの身体は動いてしまったのだ。昨夜の路地で、自分に対してそうしたように。
「一人でおれば、再び襲われる。じゃが、この船の中であれば、ひとまずは安全じゃ」
「ひとまず、か」
「完全な安全は、どこにもない」
それもあっさりと言った。
しばらく誰も口を開かなかった。波の音がかすかに聞こえる。
佐紺が口を開いた。
「一つ、確認させてください。私たちに、何をさせるおつもりですか」
「何もせんでよい。休め。船の中は好きに歩いてくれてよい」
ツクヨミはそこで一度言葉を切った。
「じゃが、一つだけ。船の下に降りる階段のことは知っておるか」
三人が頷く。あの笑顔で塞がれた階段だ。
「あそこから先へは入らんでくれ。何があるか、ではない。今はまだお主らを下ろせぬ、というだけじゃ。いずれ話せるときが来る」
嘘ではない、と分かる言い方だった。だが初めてツクヨミが、はっきりと一線を引いた瞬間でもあった。
「破ったら、どうなるん?」と朱音。
「どうもならぬ。ただ、わしが困る」
その答え方がかえって、その階段の重さを伝えていた。
朱音が、拍子抜けした顔をする。
「……ほんまに、それだけ?」
「それだけじゃ」
「殺し合いをさせるとか」
「させぬ」
「クイズの脱落者を海に放り出すとか」
「せぬ。……なぜ先ほどから、物騒な話ばかりするのじゃ」
ツクヨミが本気で困った顔をした。
朱音は大きく息を吐いて、背もたれに身体を預けた。
「よ……よかったぁ……」
佐紺も肩の力を抜き、ミナトもようやく自分の呼吸がずっと浅かったことに気づいた。誰も死ななくていい。その単純な事実に膝から力が抜けそうになる。
「ツクヨミさん」
「ツクヨミでよい」
「……ツクヨミ。昨日は、ありがとうございました。あなたは俺のために、腕を」
言いかけて、ミナトは言葉を止めた。
目の前にある少女の左頬の傷から、目が離せなかった。
こうして正面から向き合うと、その傷の生々しさが不意に間近に迫ってくる。
炎の路地で振り返ったあの顔。頬のあたりに見えた暗い影は、炎の揺らぎではなく、この傷だったのだ。半ば塞がりかけてはいるが肌の色は戻りきっておらず、縁が黒く爛れている。
「……その、顔も」
声が、掠れた。
「俺を、庇ったときに」
ツクヨミは傷のある左頬に軽く手を当てた。隠すというより、指摘されて初めて、そこにあったのを思い出した、という手つきだった。
ツクヨミが左頬に手を当てた瞬間、ミナトの頬に微かな熱が走った。
「……」
痛みというほどではない。
だが確かにそこに、裂けた傷の名残のような熱があった。
ミナトは自分の頬に触れる。もちろん傷などない。
ツクヨミがほんの一瞬だけこちらを見た。
何かに気づいたように。
けれど何も言わなかった。
その足元でかすかな音がした。
首輪から垂れた鎖の、断たれた先端。そのいちばん端のひとコマだけが、チリチリと小さく震えていた。
あまりに微かな震えだった。ほかのコマは動いていない。
先端のひとコマだけがまるで目に見えない指で触れられたように細かく震えている。
エティンの微笑みが止まった。
ダスラがわずかに目を細める。
ツクヨミは自分の鎖へ視線を落とした。ほんの短い間、何かを確かめるように見つめて――それから何事もなかったように顔を上げた。
「あのときは……顔で止めるのが一番早かったのでな。腕ほどではない。じきに治る」
ツクヨミは、こともなげに言った。
ミナトを助けるために腕を引きちぎり、顔を裂かれて。それを「腕ほどではない」と片づける。その軽さが、用意していた礼の言葉を、いっそう頼りないものにした。
「……すみません。俺の、せいで」
「謝るな」
ツクヨミは少し困ったように眉を寄せた。
「わしが勝手にやったことじゃ。お主が気に病むことは何もない」
それは本心だった。だからこそ重い。
いつかこの借りに釣り合うものを自分から差し出したい。差し出せるものなど何一つないくせに。そう願ったこと自体が自分でも意外だった。
ただ一つ聞けないことがあった。
みつけた、と、あの背中は言った。もし本当にこの少女が自分を探していたのなら――聞いてしまえば、自分はそれに見合わない、という答えだけが残る気がした。
だから聞かなかった。
夜が更けて、エティンが一歩前へ出た。
「皆様、お休みの支度が整っております。今夜はどうぞごゆっくりお休みください」
三人は立ち上がった。エティンに続いて扉へ向かう。
朱音が数歩進んだところで振り返った。
ツクヨミは椅子に座ったままだった。
「あんたは、この後どうすんの?」
「この身体の最終調整が残っておるからの。このまま続きじゃ」
「眠らんの?」
「わしは眠る必要がないのじゃ」
「……それも、人間やない部分なんか」
「そうじゃ」
朱音はツクヨミの左腕を見た。それからラウンジを見回し、なぜか落ち着かない様子で口を開いた。
「……おやすみ」
言ってから、自分でもなんで言ったのか分からない顔をした。
ツクヨミは一瞬だけ目を瞬いた。
「……おやすみ」
返し方が、少しだけ不慣れだった。言われ慣れていない言葉を、初めて口の形で確かめている――そんな返し方だった。
ミナトは扉をくぐる前に、静かに振り返った。
ツクヨミはテーブルの端に座ったまま窓の外を見ていた。
大きな丸い月が黒い海の上に浮かび、その光が銀色の髪を照らしている。月の光は首の鉄の輪にも降りていたが、そこだけは何も照り返さなかった。
ツクヨミの背後には、ダスラとメイドたちが静かに控えていた。まるでずっと昔からそうしてきたように。
月を見上げる横顔は、どんな感情も読み取れなかった。
ただ――その目は、夜景を眺める目ではなかった。
まるで何かを聴いているような。遠くから届く声に静かに耳を澄ましているような。あるいはまだ言葉にならない問いを、月へ向けているような。
月は何も答えない。ただ白く、海と船と少女を照らしているだけだ。
なぜそう感じたのか、ミナトには分からなかった。分からないまま、その横顔が妙に胸に残った。
ミナトは何も言わず、ラウンジを後にした。