第一章 誰も帰さない
二
黒い船
ミナトと八代を乗せた車は静かに走る。
後部座席に収まったミナトは、右肩の痛みを確かめるように腕を回した。折れてはいない。打撲だろう。じんじんと熱を持っているが動かせる。
車内は広く革のシートが体を包む。エンジン音はほとんど聞こえない。燃えるトラックも、消えた男たちも、あの少女も、ガラス一枚の向こうで映画のワンシーンのように遠ざかっていく。
奇妙だった。今この瞬間、自分は明らかに連れ去られている最中だ。普通なら、叫ぶか、暴れるか、少なくとも震えているはずだった。
ミナトは自分の手を見た。震えていない。それが何より落ち着かなかった。
代わりに頭の一部が勝手に観察を始めていた。運転席の男、そして隣に座る八代。背筋の角度。無駄のない動き。緊張も油断もない。
「お怪我は」
八代が言う。
「右肩を打ちました。他は大丈夫です」
「到着したら手当てさせます。少しかかりますが、ご辛抱を」
「到着って……俺をどこへ連れて行く気ですか」
「お答えできません」
「なんでですか」
「そういう指示ですので」
ミナトは少し黙ってから、質問を変えた。
「あの子は、何者ですか」
声が掠れた。喉の渇きのせいだけではない。助けられた驚きと、恐怖と、混乱。その全部の底に説明のつかないざわめきが沈んでいた。
八代はすぐには答えなかった。フロントガラスの向こうに視線を固定したまま間を置く。
「あの方は――」
言いかけて止まった。
ほんの一拍。けれど確かに何かを言おうとして飲み込んだ瞬間だった。
「……いえ。私の口から申し上げることではありませんでした。申し訳ない」
はぐらかしには聞こえなかった。むしろ言いたいことを無理に押し戻したような不自然な止まり方だった。
「あなたたちは一体何なんですか。……とにかく警察に通報します」
スマートフォンを取り出す。しかし発信は繋がらなかった。アンテナ表示は完全に圏外だった。信じられない。ここは市街地だ。
「周辺の電話は通じません。警察も来ません。車両監視システムも、今は止めてあります」
「嘘だろ。そんなことありえない」
「我々にはそれができる、とだけ申し上げておきます。周りをご覧なさい」
窓の外を見回す。夜とはいえ不自然なほど一般車両が一台も走っていない。代わりに乗っているのと同じ車種の黒いセダンが数台、前後と側方を守るように併走していた。まるで要人警護の車列のようだった。
その隊形をミナトはぼんやりと数えた。前に二台、後ろに二台、左右に一台ずつ。一人の人間を運ぶには過剰なほどの陣容だ。守られているのか、逃さないようにされているのか。たぶんその両方だった。
「ご安心ください。お迎えが遅れたことはお詫びします。思わぬ妨害にあいまして。ですがここから先は確実にお送りします」
「だから、どこへですか」
「……それも含めてです」
はぐらかしているのではなく、その一言に全部を畳み込んだ、という答え方だった。
逃げるべきだ、という考えが浮かんだ。
ドアに手をかけ、信号で停まれば降りられるかもしれないと算段する。だが、身体は動かなかった。
――帰ってどうする。
帰る部屋には誰もいない。明日からの予定もない。自分がいなくなって困る人間が一人でも思い浮かべば、たぶん逃げていた。
しかし一人も浮かばなかった。
だから乗っている。連れ去られているのではなく、自分には帰る場所がないから。その事実のほうがよほど静かに怖かった。
ミナトはもう一つだけ聞いてみることにした。
「八代さん。あなたは俺の味方ですか」
今度は返事が一拍遅れた。
その遅れがミナトには答えそのものに思えた。
やがて八代は静かに言った。
「あなたを無事にお届けする者です。それ以上のことは私自身にもまだ決められておりません」
妙な言い回しだった。けれどミナトは追及する気力もなく窓の外へ目を戻した。
見慣れた横浜の街が流れていく。深夜の幹線道路、コンビニの灯り、信号の赤。世界の側は何も変わっていない。変わったのは自分の側だけだ。
目を閉じるとまぶたの裏にあの少女が残っていた。炎の中で何もかもが光って見えたのに、首の鉄の輪だけが暗く沈んでいた。あれは何だったのか。
考えても何も出てこない。出てこないのにその問いだけが、肩の痛みよりしつこく胸の底に残っていた。
車は南へ向かっている。
◇
海岸線に入るあたりで道が細くなった。街灯の間隔が広がり、民家が消え、潮の冷たい匂いがエアコンの隙間から滲み込んでくる。
細い道の奥にゲートがあった。黒いコートの男が二人、無言で立っている。八代が窓を開けると片方が素早く車内を確認し、もう片方がゲートを開けた。言葉は交わさない。
「ここは」
「九十九財団の管理区域です」
それだけ言うと車はゲートを抜けた。舗装された岸壁が続く。波が岸壁を叩く規則的な音が走行音に混じり始める。
やがて車が止まった。
ドアを開けると冬の海風がまともに当たった。息が白くなる。足元の石畳が夜露で濡れている。
そこにあるものを見上げ、言葉が出なかった。
それは黒い船だった。
豪華客船という言葉を知っている。大型船という言葉も知っている。だがその両方を使っても目の前にあるものの輪郭を正確には描けない気がした。目測だが全長は四百メートルを超えているだろうか。高層ビルを横倒しにしたような、途方もない質量が音もなく海に浮かんでいる。船窓に灯りはなく、白い停泊灯だけが灯っている。漆黒の船体は夜の海と同じ色をしていて、満月の光だけがその輪郭をかろうじて縁取っていた。
でかい、という感想すら不釣り合いな気がした。
ミナトは無意識のうちに船体を目で追っていた。船は鋼板を溶接して組み上げるものだ。これだけの大きさなら、継ぎ目も、リベットの列も、ブロックの割り付けも、遠目にいくつも見えていいはずだった。
しかし一つも見えなかった。
巨大な船体はまるで一つの塊をそのまま海に浮かべたように滑らかだった。組み立てた、という気配がどこにもない。
その違和感に名前をつけられないまま、ミナトは隣の声に引き戻された。
「ここが目的地です。この船は『コクヨウ』と呼ばれています」
八代が言った。
コクヨウ。その名の通り黒曜石を切り出して作ったような船だ。
「……お気づきになったようですね」
八代が隣で言った。
「何にですか」
「この船に、継ぎ目がないことに」
思わず八代を見た。
「普通は、気づかないものなんですか」
「はい」
八代は初めて少しだけ目を細めた。
「初見でそれに気づいた方は、あなたが初めてです」
船体の一部が音もなく動いた。船腹が開き内側から黒いタラップが伸び、石畳の上に静かに降りる。まるでこちらが来ることを知っていたかのように。
いや、知っていたのだろうと思った。
「どうぞ」
八代が促す。
ミナトは隣の男を見た。彼はタラップではなく船そのものを見上げていた。その横顔にさっきまでの一分の隙もない気配とは違う、何か――遠いものを見るような色がほんの一瞬だけ差した。
「お送りできるのはここまでです」
「……一緒に来ないんですか」
「私の役目はあなたをお届けするまでですので」
タラップの先は船の内側となり、暗くて見えない。引き返すなら今だった。背後にはまだ車があり、街へ戻る道がある。八代もたぶん止めはしない。
ミナトはその黒い船を見上げた。
帰る場所はない。それはさっき車の中で思い知った。だが足が動かないのはそれだけが理由ではなかった。
炎の中で銀色の瞳がこちらを見た。自分の腕を引きちぎってまで見ず知らずの男を助けた、あの目。
なぜ。
その一言を確かめないまま帰ったら、自分は明日からも、今日までと同じ顔で生きていくのだろう。誰にも必要とされないことに慣れてしまった顔で。
――それはもう嫌だった。
理由としては頼りない。命を懸けるには軽すぎる。それでも、今の自分に手繰り寄せられる理由はそれひとつだった。
「……行きます」
口に出してから気づいた。連れてこられたのではない。自分の意思で行くと言った。何年ぶりなのだろうか、何かを自分の意思で選んだのは。
「俺が、自分で決めました。だから、あなたのせいじゃない」
八代がわずかに目を見開いた。それから深く頭を下げた。送り出すというより、詫びるような角度だった。
ミナトは小さく息を吸い、タラップへ足を踏み出した。
船内は外観から想像もしていなかった世界だった。暖かなシャンデリアの光、大理石の床、金の装飾。豪華すぎてかえって現実味がない。ここは本当にあの裏道から繋がっている世界なのか。
廊下の奥から複数の足音が近づいてくる。黒いメイド服に白いエプロンの女性たちが五人、六人――全員が一斉に整列し深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ミナト様」
揃った声が船内に響いた。
同時に、廊下の灯りが奥へ向かって一つずつ灯っていく。
まるで長い眠りから目覚めた屋敷が主人を迎えるように。
壁の奥で低く深い音がした。
それは機械音ではなかった。まるで生物の鼓動のようだとミナトは思った。
――おかえりなさい。
ミナトはその言葉の前で立ち尽くした。
意味は分からない。初めて来た場所で、初めて会う人たちにそう言われた。筋は通っていない。状況としてはむしろ不気味なはずだった。
なのにその言葉だけが、灰色の膜の向こうからまっすぐ胸に触れた。
これまで自分は「お疲れ様でした」しか言われない人間だった。今日もそうだった。
その自分に向かって「おかえり」と言う人がいる。
喉の奥が一瞬詰まった。
久しぶりに何かが動いた気がした。
三つ編みの女性が顔を上げる。穏やかな微笑みがなぜか懐かしい気がした。
「ミナト様、ご無事で何よりでございます」
「……あなたも、俺の名前を知っているんですね」
「はい。お待ちしておりました」
女性は少し間を置いてから静かに微笑んだ。
「長い間……です」