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第一章 誰も帰さない

邂逅

契約解除の書類を受け取ったのは午後五時だった。

「お疲れ様でした」

上司、いや元上司は申し訳なさそうな顔をしながらそう言った。だが本当に申し訳なく思っているのか、そう見える顔を選んでいるだけなのか、黒金ミナトには判別できなかった。どちらでも同じだったので気にするのをやめた。

そういうことがここ数年で増えていた。

怒るべき場面で怒れない。悲しむべき場面で悲しみが遅れてくる。嬉しいことは、そもそもあまり起きなかった。世界はいつの間にか薄い灰色の膜を一枚隔てたように、遠くなっていた。

今日、仕事を失った。三年間働いた職場から解雇されたのだ。

人生の足場が、一つ外れた。

普通ならもっと動揺するのだろう。焦るのだろう。泣くか、怒るか、誰かに電話するのだろう。

だがミナトの胸に浮かんだのは、明日の勤怠入力はもう必要ないのか、という、ひどく事務的な考えだけだった。

「お疲れ様でした」

ミナトは、決まり文句を返して席を立つ。

ロッカーの中にあった私物は、替えのシャツ一枚と、安物の折りたたみ傘一本と、コンビニのレシートが数枚だけだった。三年間働いたにしては、驚くほど軽い。

ミナトはそれらをビニール袋に放り込み、ビルを出た。

十二月の夜風がグレーのスーツ越しに刺さる。見上げると満月が出ていた。星のない都会の空に、丸く白い光だけがやけにくっきり浮かんでいる。

「明日から、無職か……」

口に出してみたが実感は薄かった。

倉庫街へ抜ける裏道に入る。三年間、毎日使ってきた近道だ。中ほどの街灯は、三ヶ月前から切れたままだった。誰も直さない。直すほどのものでもない、ということなのだろう。その下をミナトはくぐり、そして数歩進んだところで足を止めた。

静かすぎる。

背後には幹線道路があるはずなのに車の音がしない。信号待ちの声も、酔客の笑い声も、何も聞こえない。

これは、ただの静けさじゃない。何かが起きている。

前方に人影があった。

スーツ姿の男が三人、並んで立っている。

ただ立っているだけなのに妙に気持ちが悪い。顔立ちは整いすぎていて、表情がないというより、表情そのものが欠けているようだった。まるで人間の形を精度よく真似た何かのような。

手前の男がゆっくり右腕を上げた。

次の瞬間、袖が裂ける。前腕から先が、花でも開くように変形していく。

指が増え、伸び、曲がり、掌が異様に大きく開いた。

それは何かを捕らえて逃さないという――その目的に適した形状だ。

理屈より先にそう理解してしまった。

三人がミナトに向かって歩き出す。

「なんだよ……来るな!」

ミナトは声を漏らし、踵を返して走った。手にしたビニール袋を放り出し、数年ぶりに全力で両足を動かした。

肺が冷たい空気で痛む。背後から迫る足音は規則的で乱れがない。全力で走る人間の息遣いも衣擦れもない。ただ硬い靴底の音だけが一定の間隔で近づいてくる。

角を曲がる。

左は大通りへ抜ける道、右は倉庫の奥へ続く道だった。左へ逃げようとした瞬間、路地の口に四人目の影が立った。

さっきまでいなかったはずだ。

ミナトは右へ折れた。追い込まれた、と言った方が正しい。

次の分岐も同じだった。開いている道は一つだけで、その一つがひたすら奥へ奥へと続いていく。逃げているのではない。誘導されている。

「なんだ、あれ……!」

ミナトは走りながら脳内で急速にルートのログを逆算していた。右、左、右。開いている選択肢は常に一つ。意図的なトラフィックの制限。これは追い詰められているのではない。システム的に『ここ』へ流されている。

角を曲がる。突き当たりの鉄扉に飛びつき把手を引いたが、びくともしない。

「……これは……デッドエンドか」

口から出た声は驚くほど平坦だった。

振り返ると三人はすでに搬入路の入口を塞いでいた。獲物の捕獲に最適化された手がゆっくりこちらへ向く。心臓が早鐘を打っている。手のひらは汗ばみ、足は震えている。肉体は生存本能で恐怖している。なのに頭の芯だけが、サーバーのログを睨むときのように白く冷え切っていた。

ここで死ぬのかもしれない。そう思っても、その言葉は胸の奥まで落ちてこなかった。まるで怖がるための何かを、どこかに置き忘れてきたみたいだった。

空っぽの頭に、最後に浮かんだのは仕事のことだった。

サーバーのログ、保存してなかったな、と。

自分の命の危機に、そんなことを考えているのが少しおかしかった。だが、それが自分らしい気もした。

あの手が、ミナトの頭の高さでゆっくり開く。

そのときだった。

視界の端で、何かが月を横切った。

ミナトが反射的に空を見上げると、倉庫の屋上の縁に誰かが立っていた。

長い髪。満月を背にした小さな人影。

その人物はためらいなく屋上から踏み出した。

――転落。

そう思った瞬間、もう目の前にいた。

銀色の髪が宙でひるがえり、搬入路の中央へほとんど音もなく着地した。

それは小柄な少女だった。小学生か中学生くらいの年齢に見える。黒い巫女服めいたワンピース。

だがその見た目に似合わないほど、空気が鋭い。

そして――その細い首に、鉄の輪が嵌まっていた。

あまりに不釣り合いだった。少女の首には太すぎ、重すぎる、武骨な鉄の首輪。そこから太い鎖が一本、地面まで垂れている。少女が動くたび、その鎖が、じゃら、と硬く鳴った。

鎖の重さに引かれてわずかに動きが鈍る。なのに少女はそれを当たり前のことのように引きずっていた。

少女が動いた。

その瞬間、路面が低く鳴った。それは地面そのものが押さえ込まれたような音だ。少女の足元を中心に、細かな亀裂が蜘蛛の巣のように走る。

軽く見える身体に、見た目とまるで釣り合わない質量が宿っている。

ミナトがそう理解するより早く、少女は踏み込んでいた。

風が鳴り、鈍い衝撃音が響いた。一人目が壁に叩きつけられ、二人目が宙へ吹き飛ばされる。

残った三人目の腕が、急に形を変えた。

掴むための手ではない。貫くための尖端へ、瞬く間に組み替わる。

その変化は捕獲から殺害へと、目的を明確に切り替えたものだった。

ミナトの目はそれを見ていた。

あれが自分の身体を貫くと、明確に分かる。だが体が動かない。

「――うわ!」

声にならない声を上げた、その直後。

少女はミナトを体当たりで突き飛ばした。

息が止まる。

接触の瞬間だけ身体がふわりと軽くなり、次の瞬間には壁際へ運ばれ、背中からアスファルトに叩きつけられた。直後、ガキン、と金属が弾けるような音がして火花が散った。

ミナトは倒れたまま顔を上げる。

少女は三人目の前に立ち、スパイク状の腕を顔面で受け止めていた。

長い髪が大きく揺れた。それでも少女は止まらない。腕を掴み、そのまま一気に地面に叩き伏せる。

倒れた三人は突如崩れ始めた。

映像のノイズのように輪郭が滲み、人の形を失う。

ドライアイスのような白煙と冷気を残して消えていった。オゾンのような青臭い金属臭が漂う。

搬入路に静寂が戻った。

少女だけが残っている。

ミナトは倒れたまま、その背中を見ていた。

少女は振り返らない。

ただ何かを確かめるように立っている。

その背中がひどく遠いのに、なぜか知っている気がした。

――みつけた

そんな声が聞こえた気がした。

空耳かもしれなかった。確かめようにも銀色の背中はこちらへ振り返らない。

ミナトは何も言葉が出なかった。自分の呼吸音だけがうるさかった。

そのとき背後から轟音が響いた。

搬入路の入口から大型トラックが突っ込んでくる。巨大な燃料タンクを牽引したタンクローリーだ。ハイビームが路面を白く塗りつぶす。エンジンの唸りが壁に反響して、腹の底まで響いた。道幅いっぱいの車体が、まっすぐためらいなく加速してくる。運転席には四人目が乗っていた。

ミナトはまだアスファルトの上にいた。突き飛ばされたままの体勢で立ち上がれていない。

少女は路の中央に立ち、ヘッドライトを正面から浴びている。銀色の瞳は迫るトラックをまっすぐ捉えていた。逃げようともせず距離と速度を正確に測っている。

少女は自分の左腕を、右手で掴む。

そして、静かに、引き離した。

ゴリッという、石を割るような低く乾いた音がした。

肩口から離れた左腕が、残った右手に握られている。

ミナトは息をすることを忘れ、その異様な光景を見ていた。

少女が何をしたのか、目では理解している。だが頭が受け入れることを拒んでいた。腕を……外した? 自分で? 痛がる素振りもなく、まるで壊れた部品を取り替えるみたいに。

「……嘘、だろ」

掠れた声が勝手に漏れた。

その左腕が変形を始める。細く、長く、鋭く伸びていく。漆黒の槍へと変わっていく様は、恐ろしいというよりどこか静謐だった。

少女は姿勢を低く落とし、右腕だけでそれを構える。助走も予備動作もなく、全身をしならせて、投擲した。

首の鎖が引きずられて、重く軋んだ。

槍は風切り音すら置き去りにして飛び、トラックのグリルからエンジンブロックまでを刺し貫いた。

制御を失った車体が斜めに流れ、壁に乗り上げて横転する。火花を撒きながら路面を滑り、ミナトたちから離れた壁際で止まり――爆発した。

熱波が駆け抜ける。ミナトを襲う爆風を受け止めるように、少女が正面に立ちふさがる。炎が夜空へ噴き上がり、搬入路全体をオレンジ色に染めた。

炎の逆光の中に、少女のシルエットが浮かんだ。黒い衣装の輪郭が、揺れる炎に溶けそうになっている。

少女がこちらを振り返った。

炎の光を受けて、銀色の髪と、銀色の瞳が輝いていた。

そして――その細い首に嵌まった鉄の輪だけが光を撥ね返さなかった。少女のすべてが炎に輝く中で、その首輪と、垂れた鎖だけが暗く沈んでいる。

左頬に黒い筋のようなものが見えた。傷なのか、炎の影なのか、そのときのミナトには分からなかった。

ミナトはその姿から目が離せなかった。

言葉はない。ただ何かを確かめるような目だ。

タイヤが鳴る。

搬入路の入口で、黒塗りの高級セダンが急停止した。最初からここを目的地にしていた、迷いのない止まり方だった。

男が降りてくる。四十代後半か、五十前後か。黒いスーツをきっちり着込み姿勢が良い。長年人前に立ち続けてきた人間の、骨に染み込んだ種類の姿勢の良さだ。

男は燃えるトラックを一瞥し、現場全体を地図を読むように見渡した。

「これはまた、派手にやってくれましたね」

感嘆でも非難でもない、現場を確認する声だった。それから誰にともなく小さく呟く。

「後処理が手間だ……」

男はミナトへ向き直った。

「黒金ミナトさん。ご無事ですか」

「なんで俺の名前を」

声がかすれる。喉が渇いていた。

男は一歩近づき軽く頭を下げた。

「私は八代と申します。あなたをお迎えにあがりました。ご同行をお願いできますか」

ミナトは立ち上がりながら、搬入路の奥を見た。炎が揺れ煙が上がっている。少女の姿はもうどこにもなかった。

「あの子は……」

呟いても答えは返ってこない。八代はただ静かに待っている。

満月が、燃え残りの煙の上に白く降り注いでいた。

ミナトは動けなかった。さっきまで本気で「ここで終わる」と思っていた。目の前で起きたことは、どれ一つ現実のものとは思えない。

あの子は俺を守った。理由は分からない。

分からないのに頭から離れない一言があった。

――みつけた

誰かが自分を探していたらしい。誰にも探された覚えのないまま、ミナトはそれなりに納得して生きてきた。

その前提が、たった一言で音もなく崩れた。

それともう一つ。目を閉じると、あの鉄の首輪が浮かぶ。あんなに小さな子がなぜ、あんな重そうなものを。誰が嵌めたのか。あの鎖は何だったのか。

問いばかりが増えていく。