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終章 ただいまの、その先へ

四十六

ただいまの朝

その朝、ミナトは静けさで目が覚めた。

逢魔の施設の、客用の一室。カーテンの隙間から、朝の光が、床に一筋、落ちていた。

しばらく、天井を見たまま、彼は動かなかった。

糸は、まだそこにあった。細く、遠く――三十八万キロの彼方から、寝起きの挨拶のような、微かな揺らぎが、届いた。

――おはよう。

ミナトは、天井に向かって、小さく笑った。

「……おはよう」

ウェスタは、施設の厨房を早くも占拠して、朝食の支度をしていた。

戦闘配食ではない、時間をかけた朝食を作れることが、嬉しくてたまらないという手つきだった。味噌汁の味見を、三度した。

ロタは、中庭の芝生で寝ていた。修理明けのつなぎのまま、朝日の中で、大の字だった。誰も起こさなかった。

アヤは、手すりに肘をついて、ただ海を見ていた。何もしない、ということをしていた。

食堂へ降りると、ほとんど全員がいた。

大きなテーブルには湯気の立つ朝食が並べられていた。焼き魚。味噌汁。炊きたての飯。「陸の食材は素晴らしいです。鮮度という概念があります」と、ウェスタは感動に打ち震えていた。

卓の風景は、船と、同じで――少しずつ、違った。

朱音が、味噌汁を吹き冷ましながら、午後の父の見舞いの算段をしていた。佐紺とニサバが、隅の席で、もう何かの図面を広げていた(「休みましょうよ、初日くらい」「これは休みの一環です。趣味の検証会です」)。

カーネリアが、白飯のお代わりを三杯目に突入し、イナンナが「観測。姉様の摂取量、乗員平均の二・七倍」と正確に水を差していた。

そして、上座に――ツクヨミがいた。

朝食の卓に、当たり前のように座っていた。

船のコアの傍らではなく。祈りの甲板でもなく。湯気の向こうの、家族の輪の真ん中に。

「……のう、ウェスタ。この、白い汁は」

「味噌汁です、ツクヨミ様。お豆腐と、わかめの」

「わかめ。……あれか。わしが海水浴とやらで浮き輪ごと沈んだ折に、頭に絡みついてきた、あやつの仲間か」

「「「…………」」」

卓が、一瞬、静まり――朱音が、噴き出した。

「やめてえな、食べにくいわ!!」

「事実じゃが」

「事実やから、あかんねん!!」

笑い声が、朝の食堂に満ちた。

誰も、何も守らなくていい朝の、最初の笑い声だった。

「なあ、前から思っててんけど。ツクヨミちゃんって、普通にご飯食べて、大丈夫なん?」

「大丈夫じゃ。絶対必要ではないが、食べられぬわけではない」

ツクヨミは、しばらく煮物を見つめてから、口に運んだ。

「……これは、温かい」

「味の感想、それでええん?」

「うむ。温かい味がする」

そして、少しだけ考えるように目を伏せる。

「それに、同じ卓につくには、同じものを食う方がよいのじゃろう?」

その言い方があまりに真面目で、朱音は少しだけ返事に困った。

「……そやな。うん。それは、めっちゃ大事やと思う」

その日一日、全員が、見事なまでに何もしなかった。

朱音とカーネリアは、街のゲームセンターへ繰り出した。リストの一番の、実行だった。クレーンゲームの前で、カーネリアは、三十分で財布を空にした。

「取れそうで、取れない!! なにこの機械!! 詐欺!!」

「な? そこがええねん」

「よくない!! ……もう一回!!」

最後の一回で、朱音が、狙いすました一手で、大きな熊のぬいぐるみを落とした。それを、当然のように、カーネリアの腕に押し付けた。

「……な、なによ」

「戦利品や。初ゲーセン記念」

カーネリアは、熊を抱えたまま、帰り道じゅう、ずっと無言だった。無言のまま、熊を、一度も、離さなかった。

ダスラは、施設の医務室に入り浸っていた。

休め、と言われたのだが、彼女の休み方がそれだった。

財団の医療部門の資料を読み漁り、現代医療の水準を片端から確かめていた。

そして読むほどに、彼女の目は据わっていった。

「……信じられませんわ」

資料を、卓に置いて彼女は唸った。

「この時代の医療は……まだこんなに、人を諦めているんですの? 治せるはずのものを。届くはずの場所を。……ふうん。……ふうん?」

その「ふうん」の温度に、居合わせた財団の医師が、思わず背筋を伸ばした。

エティンとミナトは、市場で買った材料で、施設の厨房を借り、夕食を作った。

二人で作った初めての「焦げていない、塩と砂糖も間違っていない」食卓に、全員が着いた。

いただきます、の声が揃った。

その何でもない一日の、何でもない夕食の途中で――ツクヨミが、ふと箸を止めた。

「……のう。皆」

全員が、彼女を見た。

「わしは、この姿になってから一万三千年生きてきたが……今日のような日は、初めてじゃ。何も守らず、何とも戦わず、何も祈らず……ただ、飯を食うて、笑うただけの日は」

銀色の目が、卓を、ゆっくりと、見回した。

「……こういう日のために、わしらは、戦うたのじゃな」

誰も、返事をしなかった。

返事の代わりに、ウェスタが、全員の椀に、黙って、お代わりをよそった。

朱音は、すでに書き始めていた。

最初は、ただのメモだった。

誰が、いつ、どこで、何を言ったのか。自分たちが何を見て、何を失い、何を取り戻したのか。忘れないために、空いた時間に少しずつ端末へ打ち込んでいた。

だが、書けば書くほど、それはただの記録では済まなくなっていった。

ツクヨミのこと。コクヨウのこと。カルナのこと。月のこと。レヴィアタンの歌。セラフたちの笑い声。ダスラに抱きしめられて泣いた夜。自分が撃ち落としたものから、光が人々のもとへ帰っていった朝。

どれも、箇条書きでは足りなかった。

だから朱音は、それを物語として書くことにした。

その日も、ラウンジの隅で端末を抱えた朱音は、しばらく画面と睨めっこをしていた。やがて、向かいに座っていたツクヨミへ顔を上げる。

「なあ、ツクヨミちゃん」

「うむ」

「取材してええ?」

「しゅざい」

「これ、書くにあたって、ちゃんと確認しときたいねん」

朱音は、端末の画面を指で叩いた。

「壊れる前の月……ティアって、結局、誰が送ったん?」

ツクヨミは、すぐには答えなかった。

少しだけ、目を伏せる。

「……正確には、わしにも分からぬ。残っておるのは、断片ばかりじゃ。……おそらくは、星よりも、宇宙よりも大きな何かの意思じゃ。前にあった宇宙で知的生命体が犯した大きな過ちを、新しいこの宇宙では繰り返させぬために、調停者を各地へ送った。その一つが、ティアであり、わしらであった――らしい」

「前の……宇宙? 大きな過ち??」

朱音の指が、端末の上で止まった。

「うむ。行き過ぎた文明の発展の末に、真空崩壊を引き起こしてしまったらしいのじゃ」

「え? し、しんくう?? なに?」

「そこまで書くと、読者が疲れるのではないか」

「めっちゃ、作者みたいなこと言うやん」

「分からぬことを、分かったように書く方が、よくないからの。わしも、まだすべてを思い出したわけではない」

朱音は、しばらく考えてから、端末に数文字を打ち込んだ。

「ほな、今はこうしとくわ。『ティアは、宇宙のどこか大きな意思に送られた。理由は、もう一度同じ失敗をさせへんため。詳しいことは、たぶん、誰にもまだ分からへん』」

「うむ。そのくらいが、よい」

「ほんなら、次。ツクヨミちゃん自身は? コクヨウって、ティアの何やったん?」

ツクヨミは、今度は目を伏せなかった。

「わしらは元々、ティアに載っておった働き手での。それぞれに得意があった。わしは――重さと、道の係じゃった。落ちた場所が浅かったおかげで、中身が無事じゃっただけのことよ」

「……カルナちゃんは?」

「わしを、ティアへ繋ぎ止めておく係じゃった。皆の間を取り持ち、身体の手入れもしてくれる、器用なやつでの。……わしと一緒に滑り落ちたおかげで、あやつも、壊れずに済んだのじゃ」

朱音は、少しのあいだ、端末を打つ手を止めていた。

水深一万メートルの、あの温かい光の門を思い出していた。

それから、何も言わずに、数行を打ち込んだ。

「で、そのティアのおかげで、うちらが生まれた、と」

「正しくは、お主らが生まれるための条件が揃った、じゃな。……宇宙の標準から見れば、お主らのような生命は、かなりの変わり種じゃ。ティアを送ったものの想定からも、外れておる」

「マジかあ」

朱音は、自分の手を見た。細い指。爪。傷跡。ゲーム筐体を叩き、照準を握り、ダスラの手を掴んだ、人間の手。

「うちら、自分らが普通やと思ってたけど、逆なんやな」

「うむ。人間は、想定外じゃ」

「偶然生まれたSSRキャラ!」

「……言い方は軽いが、おおむね間違っておらぬ」

「ええやん、それ」

朱音は笑った。

「予定外のやつらが、予定通りの宇宙をひっくり返した。めっちゃ主人公っぽいやん!」

「主人公、とは」

「物語の真ん中におるやつ」

「ならば、お主らは、確かにそうかもしれぬ」

ツクヨミは、穏やかに言った。

「わしら調停者は、決められた役目を果たすために作られた。じゃが、お主らは違う。予定されておらなんだ。だからこそ、予定を外れられる」

朱音は、端末にその言葉を打ち込んだ。

予定されていなかったからこそ、予定を外れられる。

「……それ、ええな」

「使うのか」

「使う。めっちゃ使う」

「なら、もう少し格好よく言い直そうか」

「いや、そのままでええ。ツクヨミちゃんの言葉やし」

夜。

施設の広間に、自然と、全員が、集まっていた。誰が呼んだのでもなかった。ただ、まだ、離れがたかったのだった。

そして、話は、自然と――これからのことに、なった。

「……財団はな」

口火を切ったのは、朱音だった。父の見舞いの帰り、財団の新しい理事会の様子を、聞いてきたのだった。

「八代さんの遺した書類が、山ほど出てきてん。組織の建て直しの案から、この先百年の計画書まで。……あの人、最初から、勝ったあとの世界の設計図まで、描いとったんやて」

その設計図の表紙には、こう書かれていたという。

――目指すべきは、理不尽な涙のない世界である。

「……無茶な目標ですね。何百年かかるか」

ミナトが、呟いた。

「何千年、て書いてあったで」

朱音が、笑った。

「『何千年かかっても、目指す価値のある唯一の目標である。幸い、我々の船は、気の長い航海に慣れている』……やて。あの人らしいわ」

「――ならば、の」

ツクヨミが、立ち上がった。

「わしも、新しい持ち場が要る。わしは拝まれ、守られるだけの側じゃった。……これからは、逆じゃ。守る側の、旗になる。八代の設計図の、一番先頭に、わしが立つ」

「――あたしも!!」

カーネリアが、熊を抱えたまま、跳ねるように、手を挙げた。

「あたしの熱、瓦礫も切れるし、寒いとこも暖められる!……壊す側だったから、分かるの。壊れた場所で、何が要るか」

「観測より、追加します」

イナンナが、静かに続けた。

「破壊ではない接触の記録を、これからは、わたしたちが、作ります」

それが、後の世界が知ることになる、あの三人の――最初の夜だった。

「ほな、うちは、地べたから支えるわ。ダスラさんの下で、勉強させてもらう。……眠る人の隣に座る仕事の大事さなら、うち、誰よりも知っとるから」

「まあ」

ダスラが、目を丸くして、それから、艶やかに笑った。

「弟子第一号ですわね。……厳しくしてよ?」

「望むところや」

「私は――」

佐紺が、工具箱の蓋に指を置いた。

「黒金さん。前から考えていたことがあるんです。船の技術を少しずつ、人の世に降ろせないかと。……二人で、会社をやりませんか」

「……俺と、佐紺さんで?」

「配線と、コードで」

佐紺は、笑った。

「嘘のない技術、だけを作る会社です。セラフの皆さんの、働き口にもなる。……一万三千年ものの人材が、この世で一番、もったいない状態で遊んでいますからね」

留め金が、かちりと、鳴った。

「――時間厳守で、ご返事を」

広間のあちこちで、未来が、芽を吹いていった。誰かが決めた未来ではなかった。一人ずつが、自分で選んだ持ち場が、偶然、同じ方角を向いているだけだった。

その夜、解散の間際、ツクヨミが、ぽつりと言った。

「……のう、皆。一つだけ、約束せい。それぞれの道を、行け。遠慮なく、行け。……ただし――」

銀色の目が、悪戯っぽく、光った。

「飯は、時々、皆で食え。……以上じゃ」

それが、この家族の、唯一の規定になった。