第二章 帰る場所を海の底に
十四
月祈
戦いから三日が過ぎていた。
コクヨウは南へ針路を取り、海はおおむね穏やかだった。
船体側面の熱傷は、海中から集めた鉄分によって半ばまで塞がっている。上部構造の裂けた装甲も、少しずつ形を取り戻しつつあった。だが、槍を作るために削られた胴体は、まだ大きく欠けたままだ。
傷の治りの遅さだけが、あの朝の戦いの激しさを静かに伝えていた。
その日の昼、ラウンジに光が灯った。
空気が渦を巻き、人の形を編んでいく。半ば透けたスーツ姿の男――八代だった。
交戦翌日に陸から送られ、二日遅れでようやく届いた報せだ。
『皆さん。ご無事のことと思います』
いつもの、誰とも目を合わせない記録映像の声。
『先日の交戦後、財団の医療網から、奇妙な報告が上がりました。交戦が終わった朝から――』
光の八代の傍らに、いくつもの小さな像が浮かぶ。病室のベッド。窓辺の車椅子。点在する、誰かの記録。
『全国で、原因不明の「無感情症」として登録されていた患者のうち、百十七名が、完全に回復しました。一時的なものではありません。発症前と変わらぬ反応が、戻っている』
朱音の指が、椅子の肘をぎゅっと掴んだ。
無感情症。ある日突然、何にも反応しなくなる病。喜ぶことも、悲しむこともなくなる。――朱音には、その言葉に痛いほどの心当たりがある。
『不可解だったので、調べさせました』
録画は淡々と続く。
『回復した百十七名の所在は、日本中にばらばらです。共通点は、ただ一つ。あの夜、交戦海域から飛び去った「光」の、飛んでいった方角の延長線上に、一人ずつ、いた』
ミナトの中で、糸の記憶が繋がった。
撃ち落とした怪物から零れ一斉に別々の方角へ飛び去っていった、あの無数の光。糸の向こうでミナトは確かに感じていた。帰っていく、と。
「……じゃあ、あれは、まさか」
ミナトは呟いた。
「人のところへ、帰ったんですね。一粒ずつ」
光の粒一つにつき、人ひとり分。
少なくとも百十七の光が、こうして陸の数字となって裏付けられた。百十七人が、奪われる前の自分を取り戻した。
朱音が勢いよく立ち上がった。
「待って。ほな、うちのお父さんも――!」
だが光の八代は応えなかった。応えられるはずがない。これは一昨日の録画で、今の朱音の声は届いていない。
虚空の一点を見たまま、八代の像は最も重い一節を読み上げた。
『なお――早川朱音さんの、お父様について。今回回復された百十七名の中には、含まれておりませんでした。光の飛散方角の解析からも、お父様のもとへ向かった粒は、確認できておりません』
朱音の宙に浮いた手が、行き場を失った。
『お力になれず、申し訳ありません。続報があれば、また。皆さんの、ご無事を』
言い終えると、八代の像は足元から光の粒へと解けて、消えた。
最後に残ったのは、緩んだネクタイの結び目だった。
ラウンジが静まり返る。
朱音は立ったまま、しばらく動けなかった。掴みかけた希望が本人不在の録画の口から、淡々とすり抜けていった。
「……うちのお父さんのは、無かったんや」
掠れた声だった。
誰もすぐには言葉を継げなかった。
そのとき、ラウンジの隅からツクヨミが歩み出た。
「……あの夜、わしがミナトに話したことは、お主らも、聞いておるな」
「うん」
朱音が頷いた。
「ミナトさんから聞いた。レヴィアタンっちゅう名前と、まだ複数おることと。……この星が生まれた頃からおる、とかいう、頭おかしなる話も」
「そうか」
ツクヨミは小さく頷いた。
「なら、話が早い」
まっすぐ朱音を見る。
「無かった、ということは――今回のレヴィアタンの中には、お主の父御から奪われたものが入っておらなんだ、ということじゃ」
「……それだけ?」
「うむ。それ以上のことは、まだ分からぬ」
ツクヨミは、朱音から目を逸らさずに言った。
「別のレヴィアタンの中にあるのか。あるいは、もっと別の場所に保存されておるのか。それすら、今のわしには分からぬ」
朱音の表情が沈む。
「じゃが、今回戻らなんだからといって、消えてしまったと決まったわけでもない」
「……まだ、どこかにあるかもしれへん?」
「その可能性は、残っておる」
「ほんまに?」
「わしは、嘘がつけぬ」
ツクヨミは静かに答えた。
「必ず取り戻せるとは言えぬ。いつ見つかるとも約束できぬ。じゃが、まだ終わったとは決まっておらぬ。それだけは確かじゃ」
保証ではなかった。
けれど、朱音にはそれで足りた。
消えたと決まったわけではない。まだどこかに残っているかもしれない。探しに行く道は、途切れていない。
朱音は一度だけ、ぐっと唇を噛んだ。それから、涙の代わりに笑ってみせた。
「……そっか。ほな、決まりやな」
目尻を手の甲で乱暴に拭う。
「次も、その次も、撃つわ。一体倒すたびに、奪われた誰かのものが帰る。そん中に、いつかお父さんのもあるかもしれへん」
朱音は、照れ隠しのように鼻をすすった。
「見つかるまで、諦めへん。それだけや」
それはもう、ただ怯える少女の声ではなかった。
奪われた誰かのもとへ一人ずつ光を返し、その果てに父を取り戻す。長い戦いを自分から選び取った者の声だった。
だが言ってしまってから、朱音はふと手を止めた。
ツクヨミの顔を見る。
「……なあ。ひとつ、聞いてええ?」
「うむ」
「倒し続けるって、あんた、平気なん?」
朱音の声が少し低くなった。
「あれ、あんたの仲間なんやろ。同類なんやろ。それを、これからもずっと、自分の手で撃ち落としていくって……ほんまに、それで、ええの?」
無神経な問いではなかった。父を取り戻したい朱音だからこそ、誰かを失う側の痛みも分かってしまうのだ。
ツクヨミは、すぐには答えなかった。
窓の外の海へ、一度目をやる。それから静かに言った。
「平気では、ない」
正直な声だった。
「同類を撃つのは、辛い。あの夜の歌が、まだ耳から離れぬ。じゃが――だからこそ、わしが、やらねばならぬ」
「あんたが?」
「同類としての、責任じゃ」
ツクヨミは、自分の胸に手を当てた。
「あやつらは、おそらく誰かに、ああいう身体に造り変えられたのじゃ。人の感情を狩るだけの、声を失った哀れな器に。本人の望んだ姿では、断じてあるまい。あのまま、永遠に人を襲い続けさせるのは……むごい」
顔を上げる。その目には戦士のものとは違う、もっと静かな決意があった。
「わしは、あやつらを倒したいのではない。――引導を、渡してやりたいのじゃ。あの歌を、もう一度、星の海へ還してやりたい。それができるのは、同じものである、わししか、おらぬ」
ラウンジが静まった。
朱音はその言葉を、長いあいだ噛みしめていた。
奪われた人々を一人ずつ取り戻し、その先で父を取り戻したい朱音。歪められた同類を、一体ずつ弔ってやりたいツクヨミ。向かう先は同じ討伐でも、その奥にあるものは違う。違うのに――不思議と、二人の決意は同じ温度で響き合っていた。
「……そっか」
朱音は、ぽつりと言った。
「ほな、うちら、一緒やな。取り戻すのも、還してやるのも、結局は、優しさからやもん」
ツクヨミがわずかに目を見開いた。それから初めて、ふっと口元を緩めた。
「……うむ。一緒、じゃな」
ミナトはその二人を黙って見ていた。乗船してきた頃の、警戒で尖っていた朱音はもうそこにいない。戦う理由を誰かに与えられるのではなく、自分の手で掴んでいた。
その夜、ミナトはふと八代のことを考えた。
陸にいて、船には上がらず、光だけを寄越す男。
財団の医療網を動かし、国の機関にも通じ、三人の社会的な不在まで何もかも手配している。一介の「迎えの者」に、それほどの力があるはずがない。
八代は、九十九財団の要職にあるのだろう。
それも、表に名前が出るような立場ではない。人命救助を掲げる巨大財団。そのさらに奥に、外からは見えない別の組織がある。
ミナトには、そんな気がしていた。
◇
それから、十日あまりが過ぎた。
コクヨウの傷はまだ完全には塞がっていなかったが、船内には少しずつ日常が戻っていた。
戦いから二週間ほどが過ぎた夜。
眠れずに甲板へ出たミナトは、舳先の方に白い人影を見つけた。
ツクヨミだった。
北の海を警戒しているのでもない。膝を折って甲板に座し、空を見上げている。
その夜は、満月だった。
黒い海の上に、大きな月が、煌々と懸かっている。ツクヨミは、その月をまっすぐに仰いでいた。両手を胸の前でそっと合わせて。
祈っている。
ミナトは足を止めた。声をかけてはいけない気がした。
糸の向こうから伝わってくるものがあった。彼女がこの姿になってからの、どんな感情とも違う。もっと古い。記憶を失うずっと前から、彼女の芯に刻まれていたとしか思えない、本能のような――敬虔さ。
そしてミナトは気づいた。
それは祈りだけではなかった。
糸越しに伝わってくる安らぎが、一方通行ではなかった。彼女の内側が、何かに優しく満たされていく。空っぽの器に、温かい水が静かに注がれていくように。月から、彼女へ。確かに、何かが降りてきている。
ツクヨミの唇が、かすかに動いていた。
風に乗って、その声の切れ端がミナトの耳に届く。
「……どうか」
祈りの言葉だった。
「どうか、あの子らを、お導きください。奪われた者にも、奪う側にされた者にも。……わたくしに、為すべきことを、お示しください」
ミナトの知らない、丁寧な言葉づかいだった。
月へ意識を向けるときだけ、彼女は別の誰かになる。
誰かに優しく抱かれた幼子のような、無防備な安らぎ。それが糸を通して、ミナトの胸にもほんのり温かく届いた。
月は、何も答えない。ただ白く、海と船と少女を照らしている。
だが――ツクヨミは、確かに何かを受け取っていた。声か、ぬくもりか、それは分からない。ただあの満月の方から彼女のもとへ、何かが届いている。それだけは糸越しにはっきりと分かった。
ミナトの胸に、小さな問いが浮かんだ。
月と、彼女は繋がっているのだろうか。
あんなにも深く、安らいで。あんなにも、信じきって。
ツクヨミにとって、あれは何なのだろう。母か。神か。あるいはもっと別の――。
考えても分からなかった。ミナトにとって、月はただ夜空に浮かぶ衛星にすぎない。声も、ぬくもりも届かない。届くのは、ツクヨミにだけだ。
その光景は美しかった。祈る少女と、それを照らす満月。一枚の絵のように静かで、穏やかで。
なのにミナトは、なぜかその場を動けなかった。
美しいものを見ているはずなのに、胸の奥に名前のつかない何かが、ぽつりと残る。
ツクヨミがあれほど信じ、安らいでいる、あの月の側に、自分だけが置いていかれているような。
疎外感、とでも言うのだろうか。
ミナトはそれきり、声をかけられなかった。
ツクヨミは気づかない。
ただ一心に、満月へ祈りを捧げ続けていた。大きな月に抱かれるように、黒い船はその下で、静かに波を分けていた。