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第一章 誰も帰さない

十二

牙が解かれた。

その引き金を託されたのは、朱音だった。

「朱音様」

ダスラが隣の席で手を差し出した。

「お手を。――今度は、わたくしを介して、コクヨウと繋がっていただきますわ」

「繋がるって、どういう」

「触れれば、分かります。わたくしたちは、これを共鳴接続と呼んでおりますの」

朱音がその手を取る。

その瞬間、ダスラの赤い瞳が、金色に変わった。内側から薄く灯る、溶けた金の光。

同時に朱音の頭の中へ、奔流が流れ込んできた。コクヨウの武装管制。射出口の配置、弾体の質量、射出の癖、海水の盾の展開速度。本来なら理解できるはずのない異世界の兵装が、ダスラを通じて朱音の知っている言葉へ――ゲームのパラメータへと翻訳されていく。

「……っ、なにこれ。ぜんぶ、見える」

「貴女の土俵に、訳しましたの」

ダスラの声には、わずかな苦さが混じった。

金色の瞳の奥で、流れ込む情報の奔流を必死に支えているのが分かった。

「存分に、お使いなさいな」

朱音の目の前で、灰色から目覚めた全周の照準が、生きた情報で埋まっていく。彼女が何万回も見てきた、あの画面の手触りで。

朱音が照準コンソールへ両手を伸ばすと、ダスラは繋いでいた手を離し、代わりにその肩へ触れた。金色の視界は途切れなかった。

「……上等やん」

朱音の指から、震えが消えた。

ダスラが朱音と共鳴接続したのと同時に、エティンも再びミナトの背後へ立った。

「武装系統が目覚めれば、さらに深い情報が流れ込みます。共鳴接続を再開いたします」

両手がミナトの肩へ置かれる。

冷えていた指先から、ゆっくりと温かさが広がった。

顔を上げた視界の、正面。ミナトの席の、真正面。彼の視界の中央に、その小さな背中があった。

ツクヨミが立っていた。

腕を組み、裸足で黒い床を踏みしめた、小さな仁王立ち。舵輪も、操作卓も、彼女の前には何もない。操艦は、彼女が身体でやる仕事だ――船が、彼女自身なのだから。

全周囲ホログラムの中で白く発光する怪物が、翼の光を一点に収束させ始める。最大の一撃を編んでいる。

ミナトはコアに繋がったまま、それを「視て」いた。怪物が撃つ前のほんの半瞬の溜め。糸の向こうから、コクヨウの身体が次に何をするかも流れ込んでくる。

「朱音さん、来ます。翼の付け根、光が集まる直前を」

「言われんでも、見えてる」

動く的の未来の位置を撃つ。敵が「撃つ」その一点へ、半秒先回りして弾を置く。

「――そこやッ!」

コクヨウの表層装甲から、小さな黒い塊が複数剥がれた。

糸の向こうに、針で皮膚を抉るような痛みが走る。

その塊が重力に掴まれ、一斉に翼の付け根へ投げつけられた。

光が弾けた。

行き場を失った莫大なエネルギーが、怪物の翼の半分を内側から白く爆ぜさせる。

怪物が、初めて体勢を崩した。

「効いた!」

朱音が叫ぶ。

「いいえ」

ダスラの声が、鋭くなった。

「まだですわ」

翼を半分失った怪物が、ぐらりと高度を落とす。だが墜ちなかった。残った翼の突起がいっそう激しく青白い炎を噴き、強引に体勢を立て直す。そして――体軸を、空の高みへ向けた。

「……離脱する気だ」

その動きが戦場から離れるためのものだと、ミナトの直感が感じ取った。

「もし成層圏まで抜けられたら」

「追えませんわ」

ダスラが低く継いだ。

「それだけではありません。海上のコクヨウからは手が届かない高度へ出られれば、あちらは一方的に撃ち下ろせます。こちらの位置は、すでに完全に掴まれております」

「逃がしたら、また来るんか」

「来ますわ。次は、こちらが避けられない場所から」

取り逃がせば、戦いが終わるのではない。

こちらが反撃できない場所から、再び始まるだけだ。

焦りが座席に満ちる。

その中で一人だけ声の温度が変わらない者がいた。

「――上やろ」

朱音だった。共鳴接続を通して流れ込む情報の中で、怪物の動きがいくつもの未来に枝分かれして見えている。右へ逃げる線。左へ散る線。そして、最も太い一本。

「雲に逃げる。一直線に。……うん、そこしかない」

朱音の指が据わった。周りが焦るほど彼女だけが、静かになっていく。画面の中で何万回も繰り返した、あの感覚。逃げる的の行き先を、先に押さえる。

その朱音の落ち着きが、ミナトの焦りをすっと鎮めた。

――間に合う。この人が「そこ」と言うなら。

コクヨウが身を削り始めた。

「……っ」

ミナトは息を呑んだ。

今度は表面ではない。

船体の骨格そのものが、内側から融けるように引き剥がされていく。その感覚が、自分の肉を抉られるように糸を通して流れ込む。

漆黒の質量が海面の上空へ吸い上げられ、空中で凝集していく。

水蒸気も噴射炎もない。

ただそこだけ重さの向きが書き換えられたように剥がれた船体が空へ昇っていく。落ちるはずの質量が海ではなく空へ引かれている。

ミナトの視界は血の赤に染まる。肺が、内側から爆ぜるような錯覚。コクヨウが自らの身体を削り、超高圧で槍へ成形する代償――それは、船体の骨格そのものを生きたまま圧折させる、文字通りの自傷行為だった。

黒く巨大な、一本の槍。

全長は、ゆうに数十メートル。コクヨウが自らの身体を削って鋳造した一本だった。

「あれは……船の一部を、削って……」

朱音が呆然と呟く。

「ええ」

ダスラの声も硬い。

「接続越しに、視えますの。自らのお身体を、削っているのです。コクヨウの主兵装は、火薬でも推進剤でもありません。ご自身の質量を削り、重力の向きと流れを一時的に掴み替えて、投げる」

「重力を……?」

「質量をあるべき場所から引き剥がし、あるべき方向とは違う方へ落とす。あれは射出というより、落下の向きを変えた投擲ですわ」

ダスラは空中に浮かぶ黒い槍を見た。

「ですから、撃ち返すことは、この船にとって――自分を、傷つけることと、同じ」

ミナトは奥歯を噛んだ。槍が成形されていくあいだ、糸の向こうのツクヨミの身体が削られた分だけ、確かに痛んでいた。撃つことがそのまま自傷になる。それでも彼女は撃つと決めたのだ。仲間を守るために。

空中に浮いた黒い槍が、逃げる怪物へぴたりと狙いを定める。

「朱音様。弾道補正を」

ダスラが言った。朱音の肩に置かれた指に力が入る。

「あれの回避は、もう読めますわね」

「……読める」

共鳴接続の中で、先ほど見切った軌道が鮮明に浮かび上がる。

怪物が雲へ抜ける、その直前の一点。

朱音は黒い槍の軌道を、敵がこれから通る空間へ重ねた。

「そこや。逃がさへん」

照準が固定される。

「――撃って!」

黒い槍が、射出された。

風切り音すら置き去りにして、槍は空を裂く。

「が、はっ……!」

ミナトの喉の奥から血がこみ上げ、黒い床へ飛び散った。

コクヨウの損傷が、そのまま肉体へ移ったわけではない。だが、糸を通じて流れ込んだ激痛に神経と血管が耐え切れず、喉の粘膜が裂けていた。

ミナトの肩を支えるエティンの手にも、異変が起きていた。

強く押さえつけているわけでもないのに、爪の縁から細い血が滲み、指を伝って落ちていく。

誓約封の原文と痛覚を翻訳し続ける負荷が、エティン自身の神経と血管を傷つけているのだ。

二人の神経と体力をすり減らしながら、槍は飛んだ。

怪物が最後の足掻きに、残る翼の突起のすべてを槍へ向け、迎撃の光を集中させた。光の壁が槍の前に立ち塞がる。

そして槍は、迎撃光を撃ち抜いた。

表面を白く灼かれながらも、ほとんど速度を落とさず、怪物の胴体を刺し貫いた。

翼の光が消え、怪物が急速に縮み始める。

「掴まって!」

ダスラが叫んだ。

それは爆発ではなかった。その逆だった。

槍の刺さった胸の奥に――点が、あった。

拳よりも小さい。なのにコクヨウの装甲よりなお深い、光をひとつも返さない黒。

巨大な体躯が、その一点へ向かって落ちていく。

外装が剥がれ、細い帯へ引き延ばされ、渦を巻いて点の周りを一巡りしてから、呑まれた。翼が。骨格が。刺さった黒い槍さえも。すべてが流線になって内側へ折り畳まれ、ねじれ、潰れていく。

夜明けの最初の光までが、まっすぐ進めなくなった。点の周囲だけ水平線が内側へ撓み、全周囲ホログラムの映像そのものが、弧を描いて歪む。

音が消える。

周囲の大気と海面が、残された一点へ引き寄せられた。

そして怪物は、消えた。

夜明けの空に、何もない一点だけが残る。

一拍の、完全な静寂。

直後――世界が割れた。

空いた「穴」へ四方から殺到した大気が中心で激突する。雷鳴を百重ねたような衝撃波と、圧縮された大気が高熱の光となって球状に走り、投影された海面を白く叩き伏せ、CICの足元すら大きく揺さぶった。朱音が座席にしがみつく。

その揺れの中で、正面の小さな背中だけが、傾かなかった。――まるでそこだけ、床が水平を守っているかのように。

「な……なんやの、今の!?」

「わ……分かりませんわ」

ダスラの金の瞳が、揺れた。

「わたくしどもも、あれらと戦うのは、初めてですの」

嵐のような衝撃の収まった海の上に、それは現れた。

光の粒だった。

怪物が消えた空域に、無数の小さな光が、雪のようにゆっくりと湧き出している。金色とも銀色ともつかない温かな色の粒。朝焼けの空をきらきらと漂い、ゆっくりと舞い落ちてくる。

全周のホログラムがその光に包まれた。CICにいる全員が降りしきる光の中に立っているように見える。

朱音は座席から立ち上がっていた。たった今自分が撃ち落としたものから、こんなにも綺麗なものが零れている。

「……きれい」

思わず声が漏れた。ダスラも立ち尽くしている。金色に灯ったままの瞳で、降る光を見上げて。

「……なぜでしょうね」

ダスラが、小さく呟いた。

「とても、温かい気が、いたしますの」

光の粒たちがふいに、一斉に動いた。

舞い落ちるのをやめ、それぞれが別々の方角へ――

東へ、西へ、水平線の彼方へ、流星を逆さにしたような速さで飛び去っていく。数秒のうちに空は元の朝焼けに戻った。

後には何の説明も残らなかった。

ただ見たことのないものを見た、という事実だけが。

ミナトは、コアに繋がったまま、別のものを感じていた。

ツクヨミの戸惑いだ。糸を通して、それが流れ込んでくる。

怪物が消えた海域に、小さな黒いものがぽつんと浮かんでいた。掌に載るほどの、黒曜石のような欠片。すべてを呑んだ爆縮のあとに、それだけが残されている。

その欠片へ、船首下部の装甲が割れていく。

ツクヨミの表情が一瞬、固まった。

何かを言いかけ、あるいは止めようとして――間に合わなかった。彼女の意思より先に、船の身体がもう動いていた。

海面すれすれに現れた巨大な口が、波ごと黒い欠片をすくい上げる。

そして、口が静かに、閉じた。

「……食い、よった」

朱音がぽつりと呟いた。神秘的でも荘厳でもない、率直な一言だった。だがその率直さが、かえって今コクヨウがやってのけたことの不気味さをくっきりと際立たせた。

ツクヨミは、自分の手を見下ろしていた。

「……今のは、わしか」

掠れた声だった。

「わしの身体が、勝手に……。考えるより先に、動いておった。止められなんだ」

その戸惑いが糸を通して、ミナトにもそのまま伝わってくる。いつも凪いでいる少女が、自分自身の身体に置いていかれている。

変化は、すぐに来た。

船体の赤いラインが一度、深く明滅する。

ツクヨミの肩が、小さく跳ねた。

少女は目を見開いたまま、ゆっくりと空を仰ぐ。何かを探すように。

何かを、聴くように。

ミナトにも、聞こえた気がした。

糸の、いちばん深いところ。飲み込んだ欠片の奥から、ほんの切れ端だけ――声が、立ち上ってくる。

言葉にならない、けれど確かに複数の声が重なって紡ぐ、歌のような何か。

星の海で、大勢が声を重ねている。そんな響きだった。

ツクヨミは空を仰いだまま、動かなかった。

その横顔から、いつもの読めなさが剥がれ落ちている。あったのは混乱と――遠い場所から不意に何かが帰ってきて、それを受け止めかねている顔だった。

「……歌うておった、のか」

声が、震えていた。

「あんな身体になる、ずっと前は。――こやつも」

糸を通じて、言葉になる前の感情が流れ込んできた。

同類だった。

呼びかけても答えてくれなかった、初めての同類。

それを、自分の手で撃ち落としてしまった。

それがツクヨミの思いなのか、ミナト自身がそう感じたのか、もう区別がつかなかった。

そして今になって、その声を、聴いている。

ミナトは、何も言えなかった。

ただ肩の上のエティンの手が、いつのまにか震えていることに気づいて、そっとその手に自分の手を重ねた。

「……もう、大丈夫です」

エティンは小さく頷き、ようやくミナトの肩から手を離した。

冷え切ったその手を、もう一方の手でそっと包み込む。指先の震えを、誰にも見せまいとしているようだった。

ミナトは自分の手を見た。

指先が、まだ震えていた。

それでも不思議と、胸の奥は空っぽではなかった。

灰色の膜の向こうから眺めていた世界が、今はちゃんと自分の皮膚に触れている。熱も、痛みも、光も、誰かの声も、全部が近い。

生きている、と思った。

こんな状況で、こんな戦いの後で、ようやくそんなことを思った自分が少しだけおかしかった。

隣の席では、ダスラの手も朱音から離れたところだった。赤い瞳に戻りかけた金の光が、最後にもう一度だけ淡く揺れて、消える。ダスラは深く息を吐き、こめかみを押さえた。

戦いの緊張が解けていく。

二人とも、誰にも何も言わなかった。

戦いは終わった。誰も死ななかった。コクヨウの感覚を通じて、傷ついたセラフたちの命がまだ続いていることが分かった。

ミナトの指先はまだ冷たく震えていた。

勝ったのではない。自分たちの命を、文字通り削り取って生き延びたのだ。