第一章 誰も帰さない
十
変貌
警報は夜明け前に鳴った。
音ではなかった。船全体が低く一度だけ脈打ったのだ。床から、壁から、骨に直接響く鼓動。
だがミナトはその一拍が来る前に目を開けていた。胸の奥の糸が夜のうちからずっと張りつめている。船が息を詰めて身構えている。それが自分の身構えのように伝わってきていた。
三人が廊下へ飛び出すと、エティンが待っていた。いつもの微笑みが消えている。
「皆様。防護区画へご案内いたします」
「防護って、何から」
「道々、ご説明いたします。お走りいただけますか」
走りながら、エティンは前を向いたまま言った。
「北の方角より、正体不明の飛行物体がこちらへ向かっております。大型です」
「大型って、船? 軍隊?」
「いいえ」
エティンの声は走っていても乱れない。
「もっと、古いものです」
走るミナトたちの背後で、船が店仕舞いを始めていた。
いつも三人が朝食を囲むラウンジの扉が、横ざまにスライドして消える。廊下のシャンデリアが、天井に吸い込まれていく。足元の大理石が、走るそばから黒い装甲の下へ沈んでいった。
「うわっ、床!」
朱音がたたらを踏んだ。踏んだ場所がもう大理石ではなく、ひやりと硬い黒い金属に変わっている。
振り返る暇はなかった。だがミナトには糸越しに分かった。自分たちが今まで過ごした客船の世界が、一つずつ丁寧に仕舞われていく。優しい場所から順に消えていく。
「止まらないで!」
エティンの声がいつになく鋭い。
「お部屋は、もう、ありません」
防護区画は船体中央の深い場所にあった。
窓はない。壁の一面が巨大なモニターになっており、外部の映像が映し出されている。壁際には衝撃へ備えるための手すりが巡らされていた。
室内では、ニサバと数人のセラフが端末を操作している。
「皆様、こちらへ。手すりをお持ちください」
ニサバが三人を室内へ招き入れた。
「ツクヨミちゃんは!?」
朱音が振り返って叫んだ。
「ツクヨミ様は、指揮所です」
ニサバは端末から目を離さずに答えた。
「あの方が船を御しておられる限り、ここが船内で最も安全な場所です。皆様の映像と音声も、指揮所へ繋がっております」
コクヨウの変化を、ミナトは目だけでなく皮膚で感じていた。糸の向こうで船が身を縮め、硬い殻を立ち上げていく。自分の骨格が組み替わるような、奇妙な圧迫が背中を這った。思わず自分の腕をさする。
二本の煙突が、ねじれるように折り畳まれて甲板下へ消える。プールが、シアターが、展望デッキが沈み込み、その上を漆黒の装甲が滑って閉じた。客室の連なる中央ブロックには、左右から迫り出した分厚い装甲が幾重にも重なって覆い被さる。柔らかい場所を、硬い殻が呑み込んでいく。
喫水線の下から、巨大な何かが展開された。
左右一対の、鋭く大きな胸ビレ。続いて船体の後方に、尾ビレにあたる巨大なフィンが次々と立ち上がる。優雅な客船の輪郭は跡形もない。そこにいたのは――海面に低く伏せた、鯨とも鮫ともつかない、漆黒の海の獣だった。
最後に、光が走った。
漆黒の船体の表面を、幾筋もの赤いラインが、船首から船尾まで一息に駆け抜ける。装甲の境界線に沿って、深い場所から滲み出すような、熔けた金属色の赤。鼓動のように淡く明滅しながら、夜明け前の海に巨大な獣の輪郭を赤く縁取った。
「……これは」
モニターに映し出された変形した全体像を見て、佐紺が呟いた。
「……戦闘形態、ですか」
「戦闘って――豪華客船が、戦うんか」
誰も答えられないうちに、モニターの音声が切り替わった。
ツクヨミの声が流れる。
『聞こえておるか。正体不明の飛行物体が現れた。観測されるエネルギー量からみて、おそらく、わしらを攻撃するつもりじゃろう』
いつもの口調のまま、内容だけが現実離れしている。
『全力で回避する。じゃが、振り切れぬ場合もある。各自、衝撃に備えてくれ』
「ま、待って」
朱音がモニターに向かって叫んだ。
「振り切るって、逃げるってこと!? 戦うんちゃうの!?」
『南に進路を取る。戦わずに済むなら、それに越したことはない』
短い間があった。
『……怖がらせたくは、なかったのじゃがな』
そこで通信が切れた。モニターが外部映像へ切り替わる。
夜明け前の、群青の空。
その何もない空の一点が――にじんだ。
水面に落ちた油膜のように、空の色がぶれ、ねじれ、剥がれていく。隠れていたものが、隠れることをやめたのだ。
それは光っていた。
巨大な異形の体躯の背に、光の翼が広がっている。一枚や二枚ではない。無数の細長い突起が放射状に伸び、その全てが内側から白く輝いていた。逆光の空にそれが浮かぶ姿は、遠目には荘厳ですらあった。
「なんや、あれ……」
朱音が息を呑んだ。
「天使が、おる」
だがズームされた映像が、その印象を訂正する。
翼に羽根はなかった。光る突起の一本一本は羽根ではなく、付け根から先端まで奇妙な節を持つ、器官とも砲身ともつかない何かだ。胴体には顔と呼べるものがなく、ただ装甲の境界線が深い溝となって走っている。天使に似せて作られたのではない。何か別の目的で組まれた構造が、偶然天使に似てしまった――そういう形だった。
その飛行は轟音とともにあった。翼状の突起の根元から青白い炎が噴き出し、大気を灼き、眼下の海面を沸き立たせている。美しい見た目に反して、飛び方はひどく荒々しい。莫大な力で、力ずくで空に留まり続けている。
ミナトはその白く発光する怪物を、ただ見つめていた。
漆黒で光を吸い込むコクヨウとは、何もかもが正反対だ。あちらは光、こちらは闇。空の天使もどきと、海の獣。大きさだけがほとんど同じ。
なのになぜだろう。糸の向こうで何かがざわついていた。
怪物の翼の光が、すうっと一点に集まる。無数の突起の輝きが胸の前のただ一点へ吸い込まれていく。
ミナトの胸の奥で糸がびりっと震えた。来る、と分かった。画面より早く。
「避けて……!」
次の瞬間、コクヨウの船体側面がめくれ上がった。漆黒の装甲が斜めにせり上がり、その表面が、一瞬で鏡のように磨き上がる。光を吸う黒い船が、その一面だけを銀色に変えた。
光の柱が鏡面を打つ。
直撃の角度はわずかに逸れた。光は鏡面を滑り、海面の彼方へ抜けていく。
逸らされた光が海面を抉り、爆発的な水蒸気が白い壁となって噴き上がる。
船体が遅れて大きな衝撃に揺れた。
――鏡は保たなかった。
光の攻撃を受け流した代償に、せり上がった装甲そのものが白熱し、ひしゃげ、半ばから溶け落ちた。逸らしきれなかったぶんのエネルギーが船体を炙る。
「バリア!?」
朱音が叫ぶ。
「いいえ」
ニサバが手すりを掴みながら答えた。
「鏡です。ご自分の装甲の反射率を高め、光を逸らされた。……ですが」
溶け落ちる鏡面を見て、ニサバは眉をひそめた。
「割に合いませんわね。あれを一枚作るのに、削る装甲が、多すぎる」
糸の向こうでミナトも同じことを感じていた。今の一手は高くついた。コクヨウ自身が、それを悟っている。
ミナトにできることは、まだない。
ただ、さっき「来る」と分かったことだけが頭に残っていた。光が放たれるその一拍前に、糸が震えた。画面より早く。
今は叫ぶだけだ。何の役にも立たないコンマ何秒。
だが――もしこの感覚を、誰かと繋げられたら。
朱音の画面に映る前の敵を撃つ目。佐紺の誰にも読めない配線を読む手。自分の来る前に分かる感覚。
ばらばらだと思っていた特技が今、頭の中で一つの線に繋がりたがっていた。
コクヨウは、ただ避ける。光の刃が海面を横に走れば沈み込んでかわし、追尾の閃光が来れば海水を城壁のようにせり上げて受け止め、爆発的な蒸気に変える。海そのものを盾にしながら、ひたすら距離を取ろうとしている。
その機動力は、平常時のそれとは比べ物にならなかった。プラズマ推進機が轟くように巨大な船体を押し進め、船体を覆う超空泡の膜が水の抵抗を粉砕する。船はまるで海中を弾丸のように疾走し始めた。
それに加えて、巨大な尾ヒレと胸ビレによる生物的なしなやかさが生み出す爆発的な加速と制動力が、怪物の攻撃を紙一重で躱し続けている。
それでも怪物は離れなかった。青白い炎を撒き執拗に追ってくる。速度は互角か――わずかに向こうが上だった。
その追跡の只中でツクヨミの声が、独り言のようにモニターに漏れた。指揮の合間に思わず零れたという響きだった。
『……おかしいの』
「え?」
『あやつ――なぜか、わしと同じ感じがする』
ミナトの背筋が冷えた。糸の向こうのざわめきの正体をツクヨミが言葉にした気がした。
それを裏付けるように別の声が通信に乗った。淡々とした若い娘の声だ。映像の隅に、観測卓へ着いた青髪ショートヘアのセラフが映った。エイルだ。表情は、ほとんど動かない。
『観測報告。遠隔素材解析、完了しました』
感情の起伏のない声で、娘は続けた。
『目標個体――無機質生命体。構成、コクヨウと同一系統です』
通信が一瞬途切れた。
ツクヨミが、息を呑む気配がした。
『……同一、系統』
復唱する声が掠れている。いつも凪いでいるその声が、初めて揺れていた。
ミナトにはその揺れの深さまでは分からなかった。だが糸の向こうから流れ込んでくるものがいつもと違う。言葉ではない。ただ、何かが行き場を失って、細かく震え続けていた。
ツクヨミには、一万三千年前の記憶がない。
それでもツクヨミが参照できる記録の中には、自分と同じ存在は一つもなかった。目覚めてからの三年間も、同類の痕跡を見つけたことはない。
自分は、この星でただ一つの存在なのだ。
そう信じていた前提が、今、覆された。
同類がいた。
覚えのない同類が。
それも、よりにもよって――自分たちを殺しに来た。
『……お主は』
ツクヨミの声が、戦闘の指揮を離れまっすぐ怪物へ向いた。
『お主は、何者じゃ。なぜ、わしらを撃つ』
モニターの中で、光の粒子がコクヨウから怪物へ向かって放たれた。攻撃ではない。淡い、規則的な明滅。続いて低い音の波。さらに別の帯域の信号。コクヨウが持つあらゆる手段での呼びかけだった。
『答えよ。お主も、わしと同じものなら――話が、できるはずじゃ』
怪物は応えなかった。
呼びかけのすべてを、最初から存在しないかのように素通りさせ、ただ淡々と、翼に次の光を溜め始める。会話の意思は、そこにはなかった。
『……なぜ、何も言わぬ』
ツクヨミの声が、撃たれること以上に打ちのめされていた。
その隙だった。
怪物の翼がひときわ強く光を収束させる。だが狙いは海面のコクヨウではなかった。やや上――船体の上部構造へ。
「ツクヨミ様、上です!」
叫びと閃光が重なった。
光の柱が上部構造を直撃する。
その区画の装甲は分厚かった。船で最も硬い殻の一つだ。だが、先ほど海面を深く抉った光の前では、その分厚さも十分ではなかった。
装甲が内側へめくれ、裂けた。
そこには、外部監視を担当するセラフたちがいた。敵が姿を消すたび、自動観測では拾えないわずかな空間の歪みを、人の目で追い続けていたのだ。
一秒でも早く敵の兆候をツクヨミへ伝えるため、彼女たちは最後まで持ち場を離れなかった。
裂けた装甲の破片と爆風が、娘たちへ襲いかかった。
その直前、彼女たちの周囲で空間が揺らいだ。
黒い膜のようなものが一瞬だけ膨らみ、セラフたちを包み込む。コクヨウが反射的に展開した防護壁だった。
だが、間に合ったのは半瞬だけだった。
光の直撃で生じた衝撃は、防護壁が受け止められる限界を超えていた。黒い膜に幾筋もの亀裂が走り、砕け散る。勢いを削がれながらも、爆風と装甲片の一部が内側へ突き抜けた。
娘たちの身体が床へ投げ出される。
一人の肩を、砕けた装甲片が深く切り裂いていた。制服である水兵服が裂け、白い生地へ血が広がる。
だが、赤い染みが胸元へ達する前に、制服の内側で小さな破裂音が続いた。
裂けた布地の隙間から、白い泡が噴き出す。泡は血液へ触れた部分だけで膨らみ、傷口と服の間を埋めながら、流れ出す血を外側から押さえ込んでいった。
数秒後には、弾力のある白いゲルへ変わっていた。
ほかの負傷者の制服にも、次々と白い泡が咲いていく。
防護壁と制服の応急機構がなければ、命を落としていてもおかしくなかった。
ミナトの全身を、灼けた鉄が貫いた感覚が襲う。
今までの被弾とは違った。装甲が灼ける熱だけではない。糸の向こうから別のものが、津波のように流れ込んでくる。
悲鳴だ。
ツクヨミの、声にならない悲鳴。
自分が灼かれた痛みではない。
攻撃を受けた瞬間、コクヨウは反射的にセラフたちを防護壁で包んだ。持てる力で、守ろうとした。それでも、守りきれなかった。
セラフたちが傷を負った。骨が折れ、血が流れた。
ミナトへ流れ込んできたのは、その事実に対するツクヨミの絶叫だった。
自分の装甲が焼けることには耐えられる。自分の身体が削られることにも耐えられる。だが、自分の内側にいる大切な者たちが傷つくことだけは、耐えられなかった。
逃げ続け、躱し続け、それでも対話を諦めずに呼びかけ続けた――その結果が、これだった。
ミナトは膝をついていた。
「ミナトさん!?」
朱音が肩を支える。
「どないしたん、しっかりして!」
声が出ない。胸の真ん中でツクヨミの痛みと自分の痛みが、見分けられないほど混ざり合っていた。装甲の熱より彼女の心の痛みの方がずっと鋭く、ずっと深かった。
モニターの向こうで、コクヨウの赤いラインが一度、大きく明滅した。
ツクヨミの声が戻ってくる。
もう揺れていなかった。さっきまでの孤独も、混乱も、呼びかけの響きも消えている。代わりにそこにあったのは、何かを諦め何かを決めた、静かな硬さだった。
モニターの映像が外部から指揮所へ切り替わった。
観測卓の前に、ツクヨミが立っている。
ツクヨミの裸足が、黒い床を踏む。
押さえ込まれていた重力が緩み、小柄な身体からは想像もできない重さが床へ落ちる。
『……もう、よい』
ツクヨミの声が、独り言のように低くなる。
『これ以上、お前たちを傷つけさせはせぬ。たとえ――誓約封を破ることになっても』
その言葉の意味を、ミナトだけが糸を通じて理解していた。
船の奥の奥。
固く閉じたまま、ミナトを拒み続けた誓約封へ、ツクヨミが今、震える手を伸ばそうとしている。