第一章 誰も帰さない
九
予兆
「お目覚めですか」
声のした方を見ると、ダスラが椅子に腰掛け、腕と脚を組んでいた。まっすぐこちらを見る目は、初めて会ったときよりも数段冷たい。
「一日以上、眠っておいででしたわ」
「……すみません。迷惑を」
「わたくしに謝られても困りますわ」
ダスラは立ち上がり、ミナトの目にペンライトの細い光を当てた。瞳孔の反応を確かめながら、淡々と言葉を続ける。
「倒れたあなたをここまで運んだのは、ツクヨミ様とエティンです」
「ツクヨミも……」
「ええ。あなたを見つけたとき、ツクヨミ様はひどく取り乱しておられました」
ダスラの声には、隠そうともしない棘があった。
「ツクヨミ様は眠る必要のない御身です。ですが、だからといって、何も感じないわけではございませんわ」
ペンライトが離れる。
「あなたの容体が安定するまで、ツクヨミ様はそこの椅子から、ほとんど動かれませんでしたわ。わたくしたちが何度お声をかけても」
ミナトは、ベッドの脇に置かれた小さな椅子を見た。
あの小さな身体がそこに座り、自分が目を覚ますのを、ただ待ち続けていた。
「ツクヨミ様は、ひどく心を痛められました」
ダスラはペンライトを仕舞った。
「ご自分の身を、もう少し大切になさってください。あなたに何かあれば、傷つくのはあなただけではございませんのよ」
「……返す言葉もないです」
「結構。自覚がおありなら」
ダスラは眉をひそめ、手元の器具をミナトの首筋に当てた。細い光が皮膚の下を走り、神経の活動を読み取る器具だ。
「……妙ですわね」
「何がですか」
「あなたの脳波と神経活動に、これまで存在しなかった波形が混じっておりますの」
ダスラは手元の表示を見つめた。
「通常の神経活動そのものは正常ですわ。ですが、その上にもう一つ、この船が思考するときに発する信号と、まったく同じ波形が重なっている」
「船が、考えるときの?」
「ええ。船の思考信号が強まれば、あなたの中の波形も同時に強くなる。船が静まれば、それも静まる。遅延も、乱れもありませんわ」
ダスラは自分の説明を信じられないように、わずかに首を振った。
「ありえませんわ。人間の神経系へ、コクヨウの思考信号がそのまま重なるなど」
ミナトは何も言わなかった。足の裏の手応えのことも頭に残った細い糸のことも。
伝えるべきだとは分かっていた。だが、口にすれば再びツクヨミを不安にさせる気がした。それに、これは異常なのか、封印に触れた余韻にすぎないのか、自分でも判断できなかった。
ダスラは扉へ向かい、一度だけ立ち止まった。
「身体には、異常はありませんわ。脳にも、神経にも。医学的には、何も」
「それって」
「ええ」
振り返らずに、ダスラは言った。
「あなたに起きたことは、医学の外にある、ということですの」
扉が閉まる。
厳しい人だ、とミナトは思った。だが不思議と突き放された感じはしなかった。どうでもいい相手になら、人はここまで言わないからだ。
◇
午後、ツクヨミが来た。
ベッドの脇の椅子に座り両手を膝に置く。
「何を見たか、話せるか」
ミナトは言葉を探しながら話した。
強い陽射し。濃い潮の匂い。見上げても終わらない、漆黒の肌。それに触れる、大きな、傷だらけの手。知らない言葉なのに、意味だけが流れ込んできたこと。
「――これでもう、お前は誰も傷つけなくていい。そう言っていました。そうしたら、黒い肌の奥から……嬉しい、っていう気持ちが、溢れてきて」
ツクヨミは長いあいだ黙っていた。窓の外の海に目を向けたまま、何も見ていない。
「……その手を」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「わしは、知っておる気がする。じゃが、思い出せぬ」
「思い出せない?」
「わしの記憶には、欠けがある。古い時代のことは、千切れた断片しか残っておらぬ」
胸のあたりに、軽く手を当てる。
「お主が見たのは、たぶん、その欠けた中身じゃ。わしが失くしたものを、なぜかお主が拾うてくる」
責める色のない声だった。置き忘れた何かを遠くから眺めるような響き。それ以上はツクヨミも語らなかった。語れることが、そもそもないのだ。
「船に残された記録では、あれは『誓約封』と呼ばれておる」
「誓約封……」
「うむ。じゃが、何を誓い、何を封じたものなのか、わしには分からぬ。あれが作られた頃の記憶がないからの」
ツクヨミは胸元へ軽く手を当てた。
「ただ、近づけば感じる。敵を閉じ込めるためのものではない。誰かを傷つけぬために、自らへ課した約束――そのような感触じゃ」
「俺が見た記憶と、関係があるんでしょうか」
「おそらくは。じゃから、誓約封にはもう近づくな。今は、の」
「今は?」
「うむ。今は、じゃ」
それだけ言って、ツクヨミは立ち上がった。
去り際、ツクヨミが一度だけミナトを振り返った。
その瞬間、胸の奥に残る細い糸が、ぴんと張った。
ツクヨミが視線を外し、扉の向こうへ意識を移すと、糸は再び緩んだ。
身体の距離に反応しているのではない。
彼女の意識が自分へ向いたとき、繋がりが強くなる。
ツクヨミが船そのものなら、自分は今、その巨大な意識の端に引っかかっているのだ。
怖くないと言えば嘘になる。
だがそれ以上に、ここ数年間、誰とも繋がっていなかった自分が、何かと地続きになっている。その感覚をミナトは持て余していた。
◇
異変はその二日後から始まった。
いや正確には皆が気づくより半日早く、ミナトの身体が先に知っていた。
その朝目覚めた瞬間から、足の裏の手応えがわずかに硬い。船が強張っている。理由は分からない。ただ繋がった糸の向こうで、巨大な何かが息を詰めている気がした。
甲板に出ると佐紺が空を見上げていた。
「鳥が、いませんね」
「鳥?」
「昨日まで、海鳥が船についてきていました。今朝は、一羽も」
ミナトは空を見た。晴れているのに、奇妙に空っぽだ。
だがミナトを冷やしたのは空ではなかった。足元だった。
鳥が消えた、という佐紺の言葉。朝から感じていた船の強張り。その二つが頭の中で、勝手に隣り合った。意味は分からない。繋がる理由もない。
ただ厭な予感だけが繋がっていた。
次の日、船が針路を変えた。
いつも左舷側に見えていた朝日が、その日は船首寄りへ移っていた。それに気づいたのは朱音だった。
だがミナトは変針の半瞬前に、それを身体で感じていた。船が舵を切ると、その傾きが自分の内耳に伝わってくる。理由を尋ねてもエティンは「申し訳ございません」と頭を下げるだけだった。知らないのではない。言えないのだと、それだけが伝わった。
セラフたちの空気も変わっていた。
笑顔も給仕も表向きは変わらない。だが廊下を歩く足が速い。遊技室で一緒にゲームをしていたセラフたちも、いつの間にか姿を見せなくなった。
その日の昼、紅茶を運んできたメイドがソーサーを取り落とした。
高い音を立ててカップが床で割れた。船内で初めて見る粗相だった。メイドは弾かれたように膝をつき破片を集めながら、何度も頭を下げる。その指先が小刻みに震えていた。
「……だ、大丈夫? 怪我は」
朱音が屈み込むと、メイドは無理に笑顔を作った。
「申し訳ございません。わたくしとしたことが」
だが笑顔は持たなかった。集めた破片を取り落とし、もう一度拾い直す。完璧だったはずの所作が、明らかにほつれている。
セラフたちは、何でもこなす。
光を当てるだけで怪我を治し、最高難度のゲームをほぼ満点で叩き切り、人間には読めない船の設備を当然のように扱う。
だから忘れていた。彼女たちもまた、怖がるのだ、ということを。
怖がっている。あれだけのことができる者たちが。
その事実が、どんな警報よりミナトの背筋を冷やした。
◇
異変が始まって三日目の夜。
眠れず、ミナトは甲板へ出た。
ただ寝つけなかったのではない。糸が引いていた。胸の奥の細い線が舳先の方角へ、かすかに、けれど執拗に引っ張る。船の意識がそちらを見ている。だから足が向いた。誰に呼ばれたわけでもない。自分の中の何かが、確かめろと言っていた。
舳先にツクヨミがいた。
月のない夜だった。欄干にも触れずまっすぐに、北の海を見ている。
声をかけられる空気ではない。引き返そうとしたミナトの耳に独り言が届いた。
「……おかしいの」
風のない甲板に、小さな声がよく通った。
「何もない場所に――重さが、ある」
ミナトは足を止めた。
北の夜空はどこまでも晴れていた。星のほかには何もない。
何も見えない。
ミナトは目を閉じ、胸の奥の糸を、自分から手繰った。
覗くだけだ――誓約封のときもそう思った。今も同じだ。船の感覚へそっと意識を伸ばす。怖さより確かめたい気持ちが勝った。
瞬間、北の一点がぐっと近くなる。
星のあいだの、ただ黒いだけの場所に、途方もない質量があった。空がそこだけ深く沈んでいる。海でも雲でも星でもない。そして――触れた瞬間、向こうも触れ返してきた。
ミナトの心臓が、ひとつ大きく跳ねる。舳先のツクヨミが同じ拍で肩を震わせた。
「……向こうも、こちらを視ておる」
ツクヨミがゆっくりと振り返る。ミナトがそこにいることに初めて気づいた顔だった。
「ずっと前から、の。人の目を欺く隠れ蓑も、あれには通じぬ」
その目にはかすかな驚きがあった。船の感覚へ、人の身で割り込んでくる者を、初めて見た――そんな顔だ。
ミナトは北の空から目を逸らせない。自分から伸ばした糸の先に確かに何かがいて、こちらを、覚えた。指先が冷えていた。
黒いだけの空が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。