第四章 月へ至る航路
三十九
五日間
死んだふりは、思っていたより、遥かに重労働だった。
二日目の朝――地球の自転が教える、便宜上の朝――配電区画の薄闇で、佐紺とニサバは、六巡目の引き継ぎを迎えていた。
「……引き継ぎます。現在、管の湾曲、周期おおよそ四十分。振幅、微増の傾向。姿勢補正、直近二時間で十一回。全て手動」
「十一回……増えていますね」
「管が、揺れているんです。月が空の上で動く分、こちらの管も、首を振る。……船は、その喉の中を、姿勢を殺したまま、滑り落ちないように登っている。五日間の綱渡りです」
ニサバは、引き継ぎの席に着き、記録板を、開いた。手書きの補正記録が、几帳面な字で、既に三頁、埋まっていた。
「……西園寺様。仮眠を」
「ニサバさんこそ。輪番は、二時間交代の規定です」
「わたくしは、この記録の様式化を、少しだけ」
「……様式は、逃げませんよ」
「補正の癖は、逃げます。管のうねりには、癖があります。四十分周期の中に、もっと細かい揺らぎが。それを様式に起こしておけば、三日目以降の補正が、二割は楽になる」
佐紺は、扉の前で、足を止めた。
振り返って、薄闇の中の、記録板に屈み込む横顔を、見た。
「……ニサバさん。一つ、白状します」
「はい?」
「カルナの検証の夜から、ずっと思っていたことです。……あなたの様式は、優しさの、翻訳なんですね。心配だ、と言う代わりに、中断基準を書く。無事でいてくれ、と言う代わりに、撤収線を引く。……私は配線で正直を覚えましたが、あなたは、様式で優しさを話している」
記録板の上の、ペンが止まった。
「…………仮眠を、取ってください。西園寺様」
「はい。二時間後に」
扉が閉まった。
薄闇に一人残されたニサバは、しばらく動かなかった。それから眼鏡を――二度直して、記録の続きに戻った。
検分は周期的に来た。
最初の丸一日で、船はその律動を掴んでいた。おおよそ七時間ごと。管の内壁を、あの走査の波が、船尾から船首へ、ゆっくりと、舐めていく。所要、約十二分。
その十二分間、船は、完全に止まった。
点呼の囁きも。糧食の配給も。補正の手すら可能な限り。全員がそれぞれの持ち場で床に座り、あるいは壁に身を預け、文字通り息を潜めた。
三度目の検分のとき、医務室で小さな事件があった。
軽い船酔いで寝ていた若いセラフが、検分の最中に咳き込みかけた。重力の勾配は、人の三半規管に慣れない揺らぎを与えるのだ。
声を出してはいけない、という緊張が、かえって喉を締めた。娘の顔が歪んだ。
その口を、隣にいたダスラの掌が、そっと覆った。
もう片方の手が、娘の背をゆっくりと、円を描いて撫でた。囁き一つなかった。ただ撫でる掌の律動だけが、大丈夫、大丈夫、と伝え続けた。
十二分後、走査の波が船首を抜けた。
娘は、解放された喉で、小さく咳をして――それから、泣きそうな顔で頭を下げた。ダスラは、何も言わず、その頭に、ぽん、と一度だけ手を置いた。
◇
中間点は、三日目の午後に来た。
「観測。……前方、管の内部に構造物」
エイルの囁きが、薄闇のCICに走った。
「管の径が、狭窄しています。狭窄部の中心に開口が一つ。……関所です。全ての昇降物が、あそこを通らされる」
全周囲ホログラムの淡い映像に、それが映った。管の中ほどに設けられた、環状の構造体。地球と月の、ちょうど中間。重力の綱引きが釣り合う場所に、月は検問所を置いていた。
そして、その開口の縁に――光が立った。
細身の青年の輪郭。能面の、無表情。
「……宣告者」
船は狭窄部の手前で、勾配に乗ったまま減速した。回避の経路はない。管の中で、道は一本だった。
宣告者の声が、船の外殻を直接震わせた。
「検分します。――献納物の申告内容と、実体の一致を」
全員が配置についた。朱音の指が管制に、カーネリアの掌が闇の中で微かに熱を帯びた。撃ち合いになれば、この狭い管の中では双方ただでは済まない。
その緊張の前へ――一人の男が進み出た。
「私が、応じます」
八代だった。
彼は、甲板へ続く区画の、外部通話の前に立った。この数か月の偽装の、最終試験だった。相手は、彼の全ての報告を受け取り続けた、月の耳そのものだった。
「――八代です。献納物の輸送を監督しています」
「照合。八代恭一郎。登録、協力者。……申告との一致を、確認中」
走査の波が、これまでで最も濃く、船の全身を舐めた。長い、長い十二分だった。
「……構造、一致。質量、一致。動力の封鎖状態、申告と一致」
波が、引いた。
通った――と、誰もが息を吐きかけた、そのとき。
「……質問」
能面が、言った。
「八代。あなたの左手の薬指に、指輪が、ありません」
船内の空気が凍った。
この数か月、全ての定例で彼の指にあったもの。取引の証。動機の担保。それがない。月の耳は、その不在を見逃さなかった。
「再構成の対価を、放棄したのですか」
嘘は、検知される。
八代は、まっすぐに光の像を見て答えた。
「――放棄しました」
事実だった。
「妻は、戻らないと、理解したからです。あなたの主が差し出せるのは、妻の挙動であって、妻ではない。……この数か月で、その区別が、つきました」
「では、あなたの協力の動機は、消滅しています」
能面の声に、初めて、何かが走った。
「動機なき協力は、記録に、分類がありません。――矛盾です」
撃つなら、ここだった。船内の全員がそれを悟った。朱音の指が、引き金の重さを確かめた。
八代は――動じなかった。
「矛盾、ではありません」
静かな声だった。
「私は、妻が愛した世界を、守る側に――最初からいました」
船内の誰もが、凍りついた。終わった、と誰かが思った。
宣告者は――沈黙した。
排除の光は、来なかった。代わりに、あの演算の沈黙が、来た。一秒。三秒。十秒。これまでの、どの沈黙よりも長く。
「……照合します」
やがて、能面は言った。
「先日の、妹神の回答。『本物じゃった。わしの側だけは、な』。……本日の、あなたの回答。『妻が愛した世界を、守る側に、最初からいた』。……二つの回答は、同一の構造です」
瞬きの少ない目が、船を見た。
「対価なく、続く。……対価が消滅しても、あるいは対価が最初から偽物でも――差し出す側の行為だけが、本物のまま、続いている。……私の主の記録には、この構造の分類が、ありません」
そして、能面は初めて、陳述ではないものを口にした。
「……質問。それは、何ですか」
答えたのは、八代ではなかった。
通話に、別の声が割り込んだ。CICの薄闇の中から。
「――あんたの主が四十五億年前に捨てた側の、半分です」
ミナトだった。
「割れたとき、痛みと計算は月に残って、それは、地上に落ちた。……あんたの主は、それを持ってないんじゃない。手放したまま、忘れてるんだ。だから、記録に分類がない」
彼は、白い円の方角を――管の先を見上げた。
「今から、届けに行くところです。……返しに」
三度目の沈黙が、来た。これまでで、いちばん長い沈黙だった。
やがて、狭窄部の環が――静かに開いた。
道が、通った。
「……観測を、続行します」
それだけを言って光の像は、関門の縁に残った。消えなかった。敵のまま、道を開けて、通り過ぎていく船を――答えの続きを待つ者の目で見送っていた。
その夜のうちに、様式第九号は、第二版に改まった。
『道具』の欄に、一行。製造元、月。分類名、宣告者。
備考――交渉をしない。脅迫もしない。ただし、答えの続きを待つ。
◇
関門を越えた夜から、検分の周期が乱れ始めた。
七時間だったものが、五時間になり、三時間になった。理由は、分からなかった。関門での問答が、月の演算のどこかを、波立たせたのかもしれなかった。船は、より深く、息を潜めた。
その、張り詰めた四日目の夜の、点描。
――薄闇の観測席で、朱音は居眠りと戦っていた。
連日の警戒当直で、限界だった。かくん、と落ちた頭が隣の肩に当たった。
「……重い」
「……ごめ……」
謝りながら、朱音の手が無意識に、隣の手を探した。カーネリアの手だった。検分の緊張の中、少女の掌は、いつもより熱かった。
「……手ぇ、あったかいな、あんた」
「う、うるさい。……緊張すると、漏れるの」
「ええやん。……湯たんぽや」
「湯たんぽって何。……ねえ、湯たんぽって何!?」
「静かに」
二つの囁きは、それきり静かになった。手は、離れなかった。次の検分が過ぎるまで、二人は、そのまま手を繋いでいた。
――配電区画の隅で、佐紺は工具箱に指を置いていた。
留め金には触れなかった。かちり、という音すら、この夜は惜しかった。ただ、蓋の上に指を置いていた。楽器を鳴らせない音楽家が、鍵盤に指を置くように。それだけで、彼の呼吸は深くなった。
――そして、通路の暗がりで。
当直明けのミナトと、糧食を配り終えたエティンがすれ違った。
狭い通路だった。囁きすら憚られる時刻だった。二人は立ち止まり、暗がりの中で、一度だけ目を合わせた。
言葉はなかった。
エティンの手がすれ違いざま、彼の襟の白い線を直すふりで、一秒だけ押さえた。
無事で。
ミナトの手がその手の上に、一秒だけ重なった。
あなたも。
それだけの、暗闇の会話だった。二人は、それぞれの方向へ歩き去った。
その夜遅く、ミナトは八代に呼ばれた。
空いた資材庫の、薄闇。二人きりだった。
「……眠れないもので。少し、お付き合いください」
八代は、壁に背を預けて話し始めた。
「明日の夕刻には、月圏です。着けば、私は、管制中枢へ向かう。……その作業について、様式に書いていないことを、一つだけ、あなたにお伝えしておきます」
「……様式に、書いてないこと」
「補正系の掌握――帰りの道の確保は、鍵を挿して終わり、ではありません」
八代の声は、天気の話でもするように穏やかだった。
「プロボシスの追尾補正は、月の管制が、休みなく計算し続けています。それを乗っ取るということは、その計算を、こちら側の誰かが、引き受け続けるということです。掌握している間、ずっと。……つまり、私は、中枢に、座り続けることになる。皆さんの帰り道が、開いている間じゅう」
「……それは」
ミナトの声が、掠れた。
「それは、つまり……作業が終わっても、あなたは」
「離れられません。少なくとも、皆さんが、坂を降りきるまでは」
「……交代を、立てます。俺が、遠隔で系を組めば――」
「ミナトさん」
八代は、静かに遮った。
「あなたの仕事は、核です。空欄を、埋めることです。……それに、あの中枢に入れる生体紋は、この数か月の『取引』で登録された、私のものだけだ。これは、適材適所という、ただの人事の話ですよ」
人事の話、という言い方が、ずるかった。ミナトは、反論の言葉を探して、見つけられなかった。
「……一つだけ、昔話を」
八代は、薄闇の天井を見上げた。
「娘が、いたんです。私たちには。……生きていれば、あなたと、そう変わらない歳です。三つの誕生日を待たずに、逝きました。妻は、その後を追うように」
初めて、聞く話だった。
「あの子の分まで、と思って生きた三十年でした。何の分なのか、自分でもよく分からないまま。……それが、ようやく分かったんです。この船に来て。あなた方を見ていて」
彼はミナトを見た。
「未来の分だったんですね。……私が座り続けることであなた方が帰れるなら。それは私の三十年の、一番正しい使い道だ。――そういう顔をしないでください、ミナトさん。これは、良い話をしているんですよ」
八代の目元が笑っていた。
◇
自室に戻っても眠れなかった。
端末を開くと、設計図がそこにあった。組み上がった全工程の、最後の一枠だけが白い。登坂に入ってからも、埋まらないままの白だった。
明日の夕刻、月圏に着く。この白い一枠を持ったまま、四十五億年へ入っていく。
ミナトはその白を、障害対応の感覚に置き直してみる。原因の切り分けが終わらないまま、本番環境に入る。手順書の最後のページが白紙のまま。……三年間で、一度もなかった。どんな杜撰な現場でも、最後の一手が白紙のまま本番を迎えたことだけは、なかった。
アダマスの注記は、読んだ。最後の一手は、技術ではない。……そこまでは分かっている。その先が、見えない。技術でないなら、何なのか。何を、あの一枠に書けば、四十五億年に届くのか。
資材庫の薄闇で、八代は言った。座り続けることが、三十年の一番正しい使い道だと。あの人はもう、自分の持ち時間の使い道を決めている。決めた人の顔は、あんなに静かだった。
なら、自分は。あの人が開けてくれる帰り道に見合うものを、あの空欄に書けるのか。
誰にも言わなかった。朱音にも、佐紺にも、ツクヨミには、いちばん言えなかった。言えば、この白紙の不安が船に伝染する。だから胸の中の、いつもの場所に置いた。障害対応はいつもそうだった。直せる確証など一度もないまま、画面の前に座るのだ。
座る、と決めていることだけが、確かだった。
端末の白い一枠が、常夜灯の光を静かに返していた。
◇
五日目の夕刻、減速が始まった。
「月圏、進入します」
窓の外の景色が畳まれ始めた。
星々が、点から、線へ。流れる光の川になり、渦を巻いた。眼下にあったはずの地球が、引き伸ばされ、折り畳まれ、一枚の青い円になって、視界の隅へ滑り落ちていく。月の管制が、自らの領域の空間を折り畳んでいるのだった。外から見る者がいれば、船は、一瞬で月面へ掻き消えたように見えただろう。
管の中の体感では、それは数分の、光の隧道だった。
朱音が、遠ざかる青い円を、窓に額をつけて見ていた。
「……お父さん、あそこに、おるんやな」
誰も、何も言わなかった。全員の守るものが、いま、一枚の円になって、背後にあった。
――そして、隧道を抜けた。
視界が戻る。
窓の外に広がっていたもの。
月の、裏側だった。
人類が、探査機の写真でしか知らない、灰色のクレーターの海。それが、地平の果てまで続いていた。夕陽も朝焼けもない、黒い空の下の、鉱物の沈黙。
その、沈黙の大地の果て――表との境に、傷があった。
峡谷、という言葉では足りなかった。月の表と裏の境を、数百キロにわたって斜めに切り裂く、巨大な裂け目。その断面は、クレーターのような衝突の跡ではなかった。もっと古く、もっと深い――割れたときの、断面だった。四十五億年前、一つだったものが、二つに裂けた、その最初の傷。裂け目の底からは微かに、内部の光が脈のように漏れていた。
プロボシスの主幹は、その裂け目の奥へと吸い込まれていた。船の道もそこへ続いていた。
「……着陸態勢。降下、開始します」
囁きの号令とともに、船は裂け目へ向けて、高度を落とし始めた。
その降下の途中で。
エイルの観測が――それを捉えた。
「……観測、報告」
声が、珍しく、途切れた。
「裂け目の、縁に沿って……何かが、立っています」
全周囲ホログラムが、拡大した。
人型、だった。
一体では、なかった。十体でも、なかった。裂け目の縁に、等間隔で、地平の果てまで――何百、何千。同じ姿勢で、直立し、微動だにせず。そして、降下してくる船に合わせて、その何千の顔が、一斉に、ゆっくりと、上を向いた。
薄闇のCICに、誰かの、息を呑む音がした。
「照合……完了しました」
エイルの声が、静かに告げた。
「全個体――同一の、外装。……宣告者と、同型です」
何千もの同じ能面が、黒い空の下から船を見上げていた。
月は、独りではなかった。
独りで――同じ顔を、何千も作っていた。