第四章 月へ至る航路
三十七
陸の火
――時間は、半日遡る。
東京。九十九財団本部ビル。最上階の理事会議室に、その朝、緊急招集がかかっていた。
招集をかけたのは理事の一人、鵜飼だった。
五十代後半。財団の理事にして、逢魔の高位。八代と並ぶ組織の古参だった。祭壇の間で祝詞を上げる姿を、若い構成員は皆見て育った。誰よりも長く、誰よりも敬虔に、「方舟の帰還」を待ち続けた男――そのはずだった。
「――議題は一つです」
鵜飼は、静かに資料を配った。
「八代恭一郎の、機密漏洩について」
会議室が凍った。
資料は精緻だった。八代の指示したコクヨウ捜索網の不自然な検索の穴。定期報告の監査を通らない曖昧さ。深夜の記録にない外出。……この数か月分の「証拠」が、日付順に整えられていた。半分は事実で、半分は歪められていて、全体としては完全な絵になっていた。裏切り者を仕立てる絵として。
「本件、規約に基づき、八代理事の全権限の凍結と、身柄の保全を発議します」
異論は出なかった。出せる材料を誰も持っていなかった。
――なぜ、彼が。
議決の挙手を眺めながら、鵜飼は胸の内で、遠い日々を想っていた。
五十年待った。
父も待った。祖父も待った。一族は千年待った。方舟は還る。方舟は世界を救う。祭壇の前で、何万回唱えたか分からない。
そして三年前――方舟は本当に還った。
千年の祈りが成就した。そのはずだった。
だが世界は救われなかった。空から怪物が降り、街から人の心が消え、財団は火消しに追われ――戦争が始まっただけだった。祭壇の祝詞は、何一つ変わらない日々の上を上滑りしていった。
鵜飼は、その上滑りに耐えられなかった。
待つことの意味が、成就の瞬間に崩れたのだった。待って、待って、待ち続けて――その果てに来たものが「これ」なら、自分の五十年は、一族の千年は何だったのか。
その崩れた場所に。
三年前のある夜、光が立ったのだった。
能面の青年は、事実だけを述べた。あなたの待った船は救いではない。ただのはぐれた部品だ。――本物の神は空にいます。あれは確実に、来ます。祈りではなく、軌道の計算として。
「……確実に、来る」
鵜飼は、その一言に堕ちた。
不確かな祈りに壊された男に、月は確実さを差し出した。八代が「妻」で釣られかけたように、鵜飼は「成就」で釣られた。
議決は、全会一致だった。
「――保全班を、八代理事の執務室へ」
執務室の扉が開けられたとき、部屋は空だった。
机の上に、二つのものだけが残されていた。
一枚の辞任状。
そして、その上に文鎮のように置かれた――結婚指輪。
鵜飼はその指輪を、長いあいだ見下ろしていた。
意味はすぐに分かった。分かって初めて、彼は総毛立った。あの取引の材料をこの場に置いていったということは――八代は月の提示を、捨てたということだ。捨てた上でこちらの動きを読み切って消えた、ということだ。
「……逃したか」
この数か月、月に転んだ男を演じ続けた男を、月に転んだ男が取り逃がした。
◇
――さらに数時間遡る。
夜明け前の霊園。
八代は、妻の墓の前に立っていた。
供えたのは、白い花だった。この数か月、演技の看板として通い続けた、この墓前に――今朝だけは、演技ではなく来ていた。
「……報告に来ました」
彼は静かに話しかけた。
「月が、あなたを再構成すると言っています。声も、仕草も、記録から完全に編み直せると。……この数か月、その提示を餌にさせてもらいました。あなたを、看板に使いました。すみません」
墓石は朝靄の中で黙っていた。
「……正直に言います。揺れなかったと言えば嘘になる。あなたの声で『おかえりなさい』と言われる朝を、想像しなかった夜はありません」
彼は左手の薬指から指輪をゆっくりと、外した。
「ですが――あれは、あなたではない」
三十年、外したことのない指輪が、掌の上で朝の光を弾いた。
「あなたの声の記録をどれだけ精密に編んでも、あなたにはなりません。なぜならあなたという人は、記録の外にいたからです。私の予想をいつも半歩裏切る人だった。記録は過去しか編めない。あなたはいつも未来の側から私を驚かせた」
声が少しだけ和らいだ。
「だから決めました。……私はあなたの不在ごと、あなたを愛すことにしましたよ。いない、ということも含めて、あなたなのだと。……三十年目にしてようやく、そういう愛し方を覚えました。遅い夫で、すみません」
彼は指輪を胸元に、一度だけ押し当てた。
それから持参した小さな封筒に収め、辞任状に添えることを決めた。取引の材料は、敵の見ている場所に置いていく。それが、偽装の最後の一枚を自分の手で剥がす、彼の流儀だった。
「――行ってきます」
墓前で彼は深く一礼した。
生前、彼女がいつもそうして送り出したように。帰るまで灯りを消さなかった、あの人の流儀に倣って。
霊園の出口に、一台の車が待っていた。財団の車ではなかった。運転席の老人が無言で頭を下げた。逢魔の系譜の、財団の名簿には載らない側――一万三千年の組織が、裏切りの日のために温存してきた影の血脈だった。
「……お待たせしました」
八代は乗り込んだ。
「洋上観測站へ。――北の、坂の根本へ」
車は、名簿に載らない飛行場へ向かった。そこから先は貨物機の空路を二度乗り継ぎ、氷海の縁で、観測站の迎えの高速艇へ移る。半日で北の果てへ渡る道筋を、影の血脈は、いつかのこの日のために温め続けていた。
◇
――船の現在時刻に戻る。
「急げ」の一語から六時間後。
北上するコクヨウの観測網がそれを捉えた。
「観測!前方海域、高速の小型船影、一!本船へ直進――追われています!後方に、追跡の船影、三!さらにその周辺、海中に――」
エイルの声が一段と鋭くなった。
「ミルメクスの反応、多数!!」
全周囲ホログラムに構図が映った。
荒れた北の海を一隻の高速艇が、波を叩きながら必死に走っていた。その後方から武装した追跡艇が三隻。そして海中には、まるで半魚人のような影が群れをなして、高速艇の針路へ先回りしつつあった。
海中の半魚人は、オルドゥスの統制から取り残されたミルメクスだった。その尾ヒレは、両足を水中移動に適した形状へと変化させたものだ。
鵜飼が漏らした航路へ引き寄せられたのか。八代の持つ情報を嗅ぎつけたのか。あるいは、先ほどの強行発信を拾ったのか。現時点では分からない。
「高速艇の乗員は!?」
「熱源、二。老人が一名と――」
エイルが映像を拡大した。
艇の操舵室にその男はいた。仕立てのいいスーツのまま潮を被り、それでも姿勢を崩さずにまっすぐ前を――こちらを見ていた。
「――八代様です」
CICの空気が沸騰した。
「総員、戦闘配置!!」
ツクヨミの声が飛んだ。
「迎えに出る!! 一人も通すな!!」
――管制席。
「ダスラさん、火器管制、うちに同期!追跡艇の三隻、足だけ潰す!沈めんでええ、人が乗っとるかもしれん!」
「あら、お優しいこと」
「うちらの流儀や!」
朱音の読みは、もう揺らがなかった。三隻の追跡艇の機動を彼女は三手先まで読み、推進部だけを正確に、三連射で撃ち抜いた。追跡艇は次々と、海上で足を止めた。
――船外。
海中から高速艇へ殺到するミルメクスの群れの、その真上に赤い流星が落ちた。
「――近寄んな!!」
カーネリアだった。着水と同時に、彼女を中心に海が円形に沸騰した。艦級の火力は失っても、この半径の海を煮立たせる熱は健在だった。ミルメクスの群れが、白い蒸気の壁に足止めされる。
その壁を抜けた数体が高速艇に取りついた――瞬間、艇の周囲の海面が凍った。
「観測より、実行に移行します」
氷上に、白いワンピースが、立っていた。イナンナの冷気が、艇の周りに氷の環壁を張っていた。
「この方の座標はわたしが保持します。……姉様は派手に。わたしは精密に。いつも通りに」
「言われなくても!!」
――そして甲板。
ロタの機関科と、メイド服の一団が収容の準備を整えていた。その指揮を執っているのは、アヤだった。
「収容口、開放!医療班、右舷へ!波が高い、艇ごと呑み込みます――総員、衝撃に備え!」
港の夜、血を流しながら銃を握るしかなかった娘の声は、もう震えていなかった。
コクヨウが船体を開いた。
力尽きかけた高速艇を、波ごと巨大な口が掬い上げるように――呑み込んだ。
◇
収容区画に静けさが戻った。
高速艇から老運転手に支えられて、その男は降り立った。潮に濡れ疲労の色は隠せず、それでもネクタイだけは緩んでいなかった。
数か月ぶりに見る生身の八代だった。
光の像ではなく。録画の符号ではなく。呼吸をしてそこに立っている、一人の男として。
出迎えたのはツクヨミだった。
彼女の前で、八代は居住まいを正した。それから――深く、深く、頭を下げた。
「……遅くなりました」
顔を上げた男は、静かに言った。
「八代、只今――戻りました」
ただいま。
初めて乗る船に向かって、男はそう言った。
一万三千年前、岸辺から方舟を見送った者たちの末裔。
「方舟の帰還を支えよ」――その一つの教義だけを代々受け継ぎ、待ち続けてきた血が、一万三千年目に初めて、船に上がったのだった。
ツクヨミは、しばらく男の顔を見ていた。
それから、静かに言った。
「……おかえり」
八代の目元が、初めて緩んだ。
「……その言葉を頂くために、我らの一族は待ったのかもしれません」
彼は、傍らのエティンに目を移した。
「エティンさん。……三年前、あなたは私に仰いましたね。『その時が来ました』と」
「はい」
エティンは、静かに、微笑んだ。
「……その時の続きに、ようこそ」
医務室での簡単な処置のあと、八代は、ミナトと二人になる時間を求めた。
解析室。この数か月、彼の報せが解読され続けた、その部屋で。
「……お伝えしなければならないことがあります。ミナトさん。あなた個人に、です」
八代は話し始めた。
「あなたがこの船へ乗る直前に受けた、契約打ち切りについてです。あの外部攻撃の調査結果が出ました」
ミナトは、黙って八代の顔を見た。
「以前の報告では、財団内部でしか発行できない高位権限の認証鍵が使われていたことまでしか分かりませんでした。どの端末から、誰が使ったのかを示す記録は、意図的に消されていた」
八代は一度、言葉を切った。
「ですが、その後、認証鍵の発行記録と、本部内の入退室記録を照合しました。実行に使われた端末は、鵜飼の管理下にあったものです。攻撃が行われた時刻には、本人の生体認証も残っていました」
「……鵜飼さんが」
「ええ。実行者は鵜飼です。今朝、私を告発した男でもあります」
ミナトは黙って聞いていた。
背後で、小さく息を呑む音が聞こえた。佐紺だった。
彼は何も言わなかった。ただ、工具箱の留め金に指を置いたまま、少しのあいだ目を伏せていた。
「動機も判明しています。月の指示です。……月は三年前から、残響因子の保有者を監視していただけではない。社会から切り離されていた。職を奪い、縁を薄くし、独りにする。……狩りやすくするために。あなたの三年間の孤独には――仕掛けた者がいたのです」
解析室が静まった。
「あの夜、ミルメクスがあなたの帰り道を正確に張れていたのも、同じ理由です。あなたの勤め先と、退勤の刻限と、いつもの近道が――内側から、漏れていた」
怒りが来るかと思った。
だが、来たのは別のものだった。
「……教えてくれて、ありがとうございます」
やがて、ミナトは言った。声は自分でも驚くほど凪いでいた。
「ずっと思ってたんです。俺の何が悪かったんだろうって。……悪くなかったんですね。何も。それが分かっただけで、あの三年の重さが、半分になりました」
「……ミナトさん」
「それに」
彼は少しだけ笑った。
「あの三年で拾ったものもあるので。ログを読む目とか。一人で夜中まで粘る癖とか。……それが全部今、この船で、誰かを守る道具になってます。過去の意味は、あとから自分で書き換えていい。……この船で覚えました」
八代は、その顔を長いあいだ見ていた。
それから、目を細めて頷いた。
「――強く、なられましたね」
「さっきのは……月が、あなたを追わせたんですか」
ミナトが尋ねると、八代は静かに首を振った。
「おそらく、違います」
「違う?」
「今の月にとって、私はもう、それほど価値のある駒ではありません。あれはすでに、地上から直接、力を吸い上げ始めている。人間一人の動向を、逐一追う段階ではないのでしょう」
八代は、その結論を自分の中でも確かめるように、短く目を伏せた。
「見逃された、というより、見られていなかった。そう考える方が自然です」
「では、あのミルメクスは」
「野良化した個体です」
八代の声が、わずかに低くなった。
「オルドゥスの統制が失われたあとも、地上に散ったミルメクスの全てが停止したわけではありません。あれらは、もともと街に潜み、人の姿を真似、標的を選び、狩るための端末です。中央からの命令を待つだけの人形ではない。ある程度の自律判断を持っている」
「中央が消えても動く、自律型ですか」
「ええ。ただし、正常には動かない」
八代は、海の方へ視線を向けた。
「感情を奪え。異常信号を追え。コクヨウに近いものを狩れ。そうした壊れた手順だけが残り、意味も分からないまま繰り返している。交渉も、撤退判断も、優先順位の更新もない。だからこそ危険です」
ミナトは、追ってきたミルメクスたちの無機質な動きを思い出した。
怒りも焦りもなかった。ただ、獲物を追うという命令だけが、人間の形をした空洞の中で回り続けていた。
「私が持っていた情報が、引っかかったのでしょう」
「情報?」
「コクヨウへ渡すつもりだったものです。月にとっては取るに足らない人間の悪あがきでも、野良のミルメクスにとっては違った。コクヨウに近い信号。逢魔の深い記録。狩るべき異物として、匂ったのだと思います」
八代は、かすかに自嘲するように息を吐いた。
「皮肉なものです。月よりも、壊れた端末たちの方が、私の価値を高く見積もった」
「鵜飼が、あのミルメクスを差し向けたんですか」
ミナトの声が、少し硬くなった。
「そこまでは、分かりません」
八代は、即答しなかった。
「彼が私の航路を流した可能性はあります。あるいは、月へ報告したつもりの情報が、残存したミルメクスの網に拾われたのかもしれない。少なくとも、彼が直接あれらを操っていたとは考えにくい」
「でも、結果として」
「ええ」
八代は頷いた。
「銃口がこちらを向くきっかけを作った者がいた。そこは、変わりません」
その夜、最終の作戦会議が開かれた。
八代の持ち込んだものが、卓上に展開された。洋上観測站の、地上側の「入口の鍵」の起動符号。そして――この数か月の「定例」で彼が一片ずつ拾い集めてきた、月側管制の内部構造の断片。
「プロボシスの管制は、月の内部にあります。ですが、扉を叩く鍵だけは、地上側からも挿せる。逢魔が極秘に建てた観測站が、その鍵穴です。……本船はそこから、坂に乗れます」
「登坂中の、月側の認識は」
「――献納、と映るはずです」
八代は、静かに言った。
「月はまだ、私の離反を知りません。鵜飼が月へ報告する経路は、今朝の時点で、逢魔の影の血脈が、切断済みです。……月の帳簿の上では、私は今も、忠実な内通者。そして、坂を登る船は、観念して心臓を捧げに来る、哀れな獲物です」
この数か月の偽装が、最後の一枚まで、効いていた。
ニサバが、最終様式に、全工程を、書き入れていった。
一、観測站より、プロボシスへ進入。
二、登坂。所要、五日。月の管制には、献納航行と誤認させ続ける。
三、月内部にて、八代、管制中枢へ。追尾補正系を掌握し、帰りの道を確保する。
四、同時に、共鳴班、月の核へ。
工程四の、完了条件の欄で、ペンが、止まった。
空欄だった。
ニサバは、ミナトを見た。ミナトは、頷いた。
「――空欄のまま、行きます」
様式は、空欄を一つ抱えたまま、完成した。
夜明け。
北極海。
割れた氷原の中心に――それは、あった。
海面の、その一点だけ、世界の理屈が、狂っていた。海水が、細く、静かに、螺旋を描いて――空へ、昇っていた。昇りながら凍り、砕け、また昇る。目に見えない巨大な管の、その裾が、海を吸い上げているのだった。
そして、その管は、垂直ではなかった。
大きく、斜めに――天へ向かって傾ぎながら、ゆっくりと、生き物の首のように、角度を変え続けていた。月を、追って。
プロボシス、主幹。
その根本の氷海の、遥か下には、眠る山脈がいた。
コクヨウは、舳先を、昇る海水の螺旋へ――空へと続く坂道の、袂へ、静かに、合わせた。