第四章 月へ至る航路
三十四
見上げる者たち
世界は――ざわつき始めた。
八代の定期の報せは、その号から様相を変えた。財団の観測部門がまとめた、世界の「異常」の一覧が、報告の半分を占めるようになったのだ。
『……まず、潮汐の件です。世界各地の検潮所から、説明のつかない報告が続いています。潮位の乱れ、といっても、災害の規模ではありません。数センチ。ですが、天文計算と、合わない数です。学界は原因を特定できていません』
『渡り鳥の観測網からも。今季の渡りの経路が、世界規模で乱れています。海洋生物も同様です。鯨の座礁が、通常年の三倍。……方位を、磁気を、重力を頼りに旅をする生き物たちが、一斉に、道を見失い始めている』
『そして――これは、報告に載せるべきか迷いましたが』
光の男は、少し、間を置いた。
『満月が、明るすぎる。観測史上の、どの記録よりも。……人々が、気づき始めています。理屈は誰も知りません。ただ、夜、空を見上げる人の数が、明らかに増えました。中には……見上げると涙が出る、眠れない、と訴える人々が、各地の病院に現れています。共通項はまだ、掴めていません』
そして続けた。
『財団では該当者の保護と並行して、簡易観測端末の配布を始めています。月を見上げた際に生じる生体反応と、周辺の重力波形を同時に記録するためのものです。……現時点では、観測以外の機能はありません』
――船の側には、掴めていた。
「弱い、残響じゃ」
ツクヨミが、静かに言った。
「因子の薄い者らが、あれの気配に当てられ始めておる。……道の末端が、世界に触れ始めたのじゃ」
『市場は、動揺しています。終末を説く者が、街角に増えました。暴動はありません。パニックも、まだ。……なんと言いますか』
八代は、言葉を探した。
『世界中が、何かがおかしいと感じ取り、それが何かを知らない。……そういう、低い、通奏音のような不安が、地上を覆っています』
そして、報せの最後に、彼はこう結んだ。
『逢魔の全機関は既に、一つの方針の下に動いています。一万三千年、我々が待った日のために。――方舟の帰還を支えよ。……財団の全資源を、静かに、その一点へ向け直しています。何が要るか、いつでも、お報せください』
◇
解析は、昼夜を分かたず進んでいた。
観測席の青と白は、この一週間、ほとんど不眠不休で――月の「道」の全容を、削り出し続けていた。眠りの要らぬ身体のイナンナはともかく、エイルは仮眠の勧めを全部断って、である。
その成果が、朝のCICで共有された。
「観測結果を報告します」
全周囲ホログラムに、地球の全球図が浮かんだ。そこに、解析済みの構造が重ねられていく。
月から伸びる道は――一本ではなかった。
「主たる幹が一本。そこから分岐する細い末端が――現時点で観測できた限り、数百」
地球の各地へ、細い糸のような末端が降り注いでいた。まるで、巨大な植物の根のように。
「末端は細く、まだ地表に完全には達していません。ですが降下は継続中です。そして末端の接地予測点は――動きます」
図上の予測点が、日付とともに、じり、じりと、這うように移動していった。
「動くの……? 固定やないの?」
「月は、公転しています。地球は、自転しています。末端の追尾補正は粗く、接地点は日々、地表を這うように移動します。……格子が、世界の上を、ゆっくり歩き回る。そういう構造です」
朱音の顔が、強張った。予測図の上を這う点の一つが、日本列島の上を、うろついていたからだ。療養七号施設のある県の上を、掠めるように。
「そして、主幹です」
図が切り替わった。数百の末端の中でただ一本だけ、桁違いに太い幹が――北極点の直上へ降りていた。
「主幹の接地点だけは動きません。極点は、自転の軸上――地表で唯一、回らない場所です。そして、その真下には」
誰もが、知っていた。氷海の底で眠る、漆黒の山脈。
「……父が、います。月は、最大の獲物の真上に、最も太い管を挿そうとしている」
CICが、静まった。
その静けさの中で、ニサバが、事務の声で訊いた。
「この構造の、呼称を定めます。記録と作戦の用語として。……月側は、これを何と呼んでいますか」
「傍受された限りでは――臍帯、と」
「さいたい……へその緒、ですか」
佐紺が眉を寄せた。
「はい。母と子を繋ぐ管。栄養を送る管。……月の、自称です」
イナンナは、そこで、わずかに、間を置いた。
「ですが、わたしは観測者として、この呼称を承認できません」
白い指が、ホログラムの構造を指した。
「この管の設計を、解析しました。流れの向きは――一方通行です。地球から、月へ。送るのではない。吸うのです。感情を。エネルギーを。この星の、温かいものを、全部」
水色の目が、CICを見回した。
「分類名を提案します。――プロボシス。吸収器官。蚊が血を吸うときの、あの口の管の名です」
一拍おいて、彼女は、抑揚のないまま言い切った。
「月は、これを臍帯と呼んでいるようですが。――観測結果と一致しません」
以後、船の記録と作戦のあらゆる場面で、あの構造は「プロボシス」と呼ばれることになる。
「――では、作戦の骨子を」
ニサバが、様式を開いた。
「本船の重力推進は、プロボシス主幹の勾配上で、登坂に転用可能。これは、観測班とミナト様の試算で確認済みです。月が架けた道を、逆に登る。……ただし」
彼女は、最大の問題を赤字で示した。
「主幹の管制権は、月にあります。無許可の登坂は、勾配を反転されればそれまでです。虫のように払い落とされます。……登坂には月の管制への、内部からの干渉が、必須」
「内部から……そんなん、誰が」
「可能な位置にいる存在は――」
ニサバは、眼鏡を直した。
「現状、一名のみです」
全員の頭に、同じ顔が、浮かんだ。
陸で、敵の隣に立ち続けている、あの穏やかな男の顔が。
◇
「――で、どうやって、伝えるんですか」
解析室で、佐紺が根本の問題を突いた。
「船から陸へは、器の便で最短四日。しかも、八代さんは、監視の網の中だ。『月の管制に潜り込んでください』なんて、書けるわけがない。読まれたら、あの人も、作戦も、終わる」
「はい。だから――書きません」
ミナトは、端末に下書きを開いた。
「あの人が、俺たちにやってみせた方法を、そのまま、返します。……表の文面は、完全に無害。その中に、あの人にだけ読める形を、織り込む」
「暗号、ですか。しかし、鍵の共有もなしに」
「鍵は、あります。……二人だけが知ってる文脈が」
ミナトが呼び出したのは、航海の初めに届いた記録だった。二通目の報せ。『契約の件については、心当たりが――』と言いかけて、飲み込んだ、あの箇所。
「俺の、契約打ち切りの件。あの人は、何かを知ってて、飲み込んだ。あの飲み込みは、俺と、あの人の間にしかない文脈です。監視者には、ただの雑談にしか見えない。……ここを、扉にします」
文面は、三人がかりで、三日かけて、編まれた。
完成した報せの表面は、こうだった。――船は健在であること。修理は順調であること。そして後半、ミナト個人からの、身の上話めいた一節。
『……八代さんに、以前、私の前職の話を少しだけしましたね。実は最近、船のシステムの保守で、あの頃と似た問題に当たりました。外部からの割り込みで、制御を乗っ取られかけている系統の話です。あの頃の私は、権限がなくて、外から眺めることしかできなかった。今回は違います。内側に、正規の権限を持つ人間が一人いれば、割り込みの経路は、内側から書き換えられる。私はそれを、この船で学びました。……つまらない技術談義で、すみません。ただ、あの頃の自分に教えてやりたい話だったもので。近く、その保守作業の山場が来ます。登りの工程です。良い報告ができることを』
監視者が読めば、技術者の思い出話だった。
だが、ミナトの契約打ち切りの真相を知る者――外部攻撃の濡れ衣、という文脈を知る者が読めば、一行ずつが、裏返る。外部からの割り込みで乗っ取られている系統(=プロボシスの管制)。内側に正規の権限を持つ人間が一人いれば、書き換えられる(=あなたのことだ)。登りの工程(=船は、坂を登る)。
「……読めますかね、これで」
「読めます」
佐紺が、静かに言った。
「読める人にしか、読めない。それが、あの人の流儀だ。……弟子入りした気分ですよ、まったく」
器は、その日の夕方、海へ発った。
「返信は、最短で八日後」
ニサバが工程表に、その日付を刻んだ。
「……八日。長いですね」
その八日が、時限になった。
――だが、時限より先に警告が来た。
発信の翌日に届いた、八代の定期の報せ。入れ違いになったその便の中に、これまでで最も濃い符号が織られていた。
解読を終えた三人の顔は、暗かった。
「……整理します」
ミナトが、卓に、解読結果を並べた。
「八代さんは、俺の契約打ち切りに、財団内部でしか発行できない高位権限の認証鍵が使われていたことを確認した。けど、発行元と使用端末の記録は消されている」
卓が、凍った。
「内通者がいる。それも、逢魔の中枢に近い場所に。同じ系統の不正接続記録は、三年前まで遡れたそうです。……船が目覚めるより前から、月に通じている誰かがいる」
「三年前から……」
朱音の声が低くなった。
「ほな、ミナトさんの三年間て……」
「はい。……仕組まれてた、みたいです」
ミナトの声は、自分でも意外なほど平坦だった。その件の消化はもう少し先送りにすると決めていた。今は、作戦への影響だけを数えるべきだった。
「結論だけ、言います。帰る岸辺に、腐った杭が一本ある。……つまり」
「最終作戦の全容は――」
ニサバが引き取った。
「陸には、一切降ろせません。八代様にすら、断片しか渡せない。あの方が断片から全体を組み上げてくださることを……信じるしかありません」
◇
その夜、ツクヨミが初めて、自分から全員を招集した。
ラウンジの円卓。六席では足りなくなって久しい輪の、中心に彼女は立った。
「……一つ、皆で決めておきたいことがある」
銀色の目が、一同をゆっくりと見回した。
「坂を登り、月へ至って――わしらは、何をする?」
「決まっとるやん」
朱音が、即答した。
「止める。あれ以上、好き放題させへん」
「うむ。止める。……じゃがの、朱音。止め方には、二つある」
ツクヨミは、指を、二本、立てた。
「壊すか。解くか」
卓が、静まった。
「月の機関を、砕けば、終わる。プロボシスは崩れ、地球は守られる。手っ取り早い。……そして、わしらには今、それができるだけの牙がある」
二段目まで解かれた封。海の底の熾火。
「じゃが――思い出してほしいのじゃ。月もまた、ティアの半身じゃ。事故で砕けて、機能の半分を失うたまま、四十五億年……たった独りで、あの空におった。わしや、オルドゥスと同じ、壊れたものじゃ」
彼女は、北の方角を――氷の下で眠る、あの巨体の方角を見た。
「オルドゥスを、わしらは解いた。撃つ前に、聴いた。壊れた手順の下にあったものを、見つけた。……ならば、の」
声が、静かに問うた。
「母様だけを、壊して終わるのは――それは、道理が通らぬ。……わしは、そう思う。じゃが、これは、わし一人で決めてよいことではない。あれに一番深く傷つけられたのは、わしだけではないからじゃ」
視線が自然と、一人に集まった。
朱音だった。
父を三年奪われた少女。その原因の、大元の大元にいるのが、あの月だと、もう全員が知っていた。
朱音はしばらく、卓の一点を見ていた。
それから、顔を上げた。
「……せやなあ」
ぽつりと、言った。
「うちな、正直、月のこと、ぶっ壊したいくらい、憎いで。お父ちゃんの三年、返せって思う。……でもな」
彼女は、苦笑いのような、泣き笑いのような顔をした。
「オルドゥスかて、うちのお父ちゃん、奪った側やってんで。直接手ぇ下したの、あっちの腕やで。それを、うちらは聴いて、解いて……ほんで、お父ちゃんは帰ってきた。あのやり方で、帰ってきたんや」
深く、息を吸った。
「――月だけ例外は、ずるいわ」
言い切って、彼女は、ツクヨミを見た。
「解くんやろ。ほな、うちも乗る。……ただし、条件や。解けんかったら――お父ちゃんたちに、二度と手ぇ出せんように、そんときは遠慮なくぶっ壊す。保険は持ってく。それでどうや」
「――うむ」
ツクヨミは、深く、頷いた。
「破壊は、最後の保険。本命は、修復。……それで、いこう」
方針は、定まった。
そして、その方針が、次の課題を、自動的に卓上に載せた。
「修復――共鳴で、月を解く。ですが」
ニサバが、冷静に指摘した。
「オルドゥスの共鳴接続と、月とでは、規模が違いすぎます。現行のプロトコルでは、届きません。拡張には、設計の根本からの見直しが……」
「……分かってます」
ミナトが、静かに言った。
「そして、その設計の元になるものが、どこにあるかも」
全員が、彼を見た。
「アダマスさんは、オルドゥスを『解く』道を探して、時間切れになった人です。あの人が、その構想を、どこにも残していないはずがない。……残す場所も、一つしかない」
保管区画の、正十二面体。
まだ開かれていない、最後の――第三の層。
宛先の書かれた、あの層。まだ生まれていない、私の続きへ。
◇
深夜の解析室に、ミナトは、一人でいた。
画面には、図書館第三層を閉ざす、保存封の織り目が映っていた。三日前から、何度も開いては、閉じている画面だった。解析は、済んでいる。開けようと思えば、今夜にも、開けられる。
開けられないのは、技術ではなかった。
――私の続きへ。
その宛先を、受け取るということ。あの男の遺したものを、正面から、全部、浴びるということ。封に触れ、古い記憶の奔流に呑まれかけたあの夜、深層で自分の輪郭が押し流されかけた、あの感覚。あれの、最終版が、この織り目の向こうで、待っている。
受け取ったあとの自分は――どこまでが、黒金ミナトなのか。
「……開けないの、それ」
声は、いつもの椅子から、した。
カーネリアが、膝を抱えたまま、画面を見ていた。いつからいたのか、気配もなかった。
「……開けるよ。いずれ」
「いずれ、って三日言ってる」
「…………」
「別に、詮索する気ないけど」
少女は、そっぽを向いた。向いたまま、ぽつぽつと、続けた。
「……あのさ。あたし、身体、全部作り直されたんだよね。前のは、海の底で潰れてさ。中身だけ、引っこ抜かれて、この船が編んだ器に、移された。……知ってるでしょ、あんたがやったんだから」
「……うん」
「最初、怖かったよ。器が変わったら、あたし、あたしじゃなくなるんじゃないかって。前の熱の出し方、忘れるんじゃないかって。イナンナの顔、違って見えるんじゃないかって」
彼女は、自分の掌を開いた。小さな熱が、ぽ、と灯った。前と同じ、彼女の熱が。
「だけど――あたしは、あたしのままだった」
赤い目が、まっすぐにミナトを見た。
「器が変わっても。魂ってやつは、しぶといの。……あんたが、そうしてくれたんじゃん。「お前は道具じゃない」って、引っこ抜いてさ。……その本人が、なに、他人の遺言くらいでビビってんの」
ミナトは、しばらく、言葉が出なかった。
救った相手から、救った行為そのものを、反証として突きつけられていた。
「…………そうか」
やがて、彼は、笑った。
「そうだな。……ビビってた。かっこ悪いな、俺」
「今さらでしょ」
「言うね」
ミナトは、画面に向き直った。図書館第三層の織り目。まだ生まれていない、私の続きへ。
「……開けるよ」
彼は、言った。
「ただし、一人では、開けない」
それが、あの手記の男と、自分との、違いだった。
窓の外で、大きくなり続ける月が、暖かい海を白く照らしていた。