第三章 壊れた親と、鎖の子ら
二十四
更新
北への航海、二日目の夜。
解析室には、ミナトと佐紺、それにエイルの三人が集まっていた。照明を落とした室内で卓上の投影装置が淡く輝き、舞い上がった光の粒が、スーツ姿の男を編み上げていく。
『皆さん、お変わりありませんか。八代です』
再生されているのは、乗船三日目に届いた最初の報せだった。ミナトの端末には、コクヨウが保存してきた八代の映像が、全部で十一通、作成された日付の順に並べられている。
「……それで、黒金さん。これは何の検証ですか」
佐紺に尋ねられ、ミナトは少し迷ったものの、現時点で確かめられている事実だけを話すことにした。
「エイルさんが、直近の報せに不自然な点を見つけました。八代さんがカルナについて述べた『お悔やみ』ですが、どう計算しても日付が合わないんです」
「観測報告。八代様が報せを作成した時点では、カルナの喪失を伝えた本船の伝令器は、まだ陸へ到着していません」
エイルが抑揚のない声で補足する。
「つまり八代さんは、こちらの報せが届くより前に、カルナのことを知っていたことになります」
「……それは、穏やかではありませんね」
佐紺の表情が曇った。
「知りようのない情報を知っていたとなれば、いくつか、あまり考えたくない可能性が浮かびます」
「はい。だからこそ、憶測だけで結論を出す前に、記録を調べます」
ミナトは、画面上に並ぶ十一通の報せを示した。
「幸い、比較できる材料はすべて残っています。乗船してから今まで、同じ人が、ほとんど同じ形式で話し続けた記録です。人は変わったとき、必ず変わったなりの痕跡を残します。システムのログと同じです」
最初の報せが終わると、続けて二通目、三通目が再生された。同じ男が卓上に立ち上がり、報告を済ませるたび光の粒へ戻って消えていく。
三人は声の調子や視線の動き、両手の置き方といった細かな所作を、それぞれの視点から追った。
最初に規則性を拾い上げたのは、やはりエイルだった。
「観測報告。ネクタイです」
「ネクタイ?」
「八代様は報せの中で、時折、緩んだネクタイを締め直しています。出現は十一通中、四回。すべて、発言を途中で変更する直前です」
エイルが四つの場面を切り出し、同時に並べて再生した。
二通目では、ミナトの契約解除について触れ、『心当たりがないわけでは――』と言いかけて飲み込む、その直前に右手がネクタイへ伸びている。
五通目では、財団内の人事について何かを口にしかけ、別の話題へ移る前に。
七通目と九通目にも、同じ所作があった。
「言うべきではないことを、言いかけたときに出る癖なのでしょう」
佐紺は、並んだ四人の八代を見比べながら呟いた。
「口で抑え込んだものが、手の動きへ逃げている」
「はい。続いて、十一通目です」
最後に届いた報せが再生された。
『カルナの件、心よりお悔やみ申し上げます。皆さんのご心痛は、察するに余りあります』
三人は、八代の像が消えるまで黙って見届けた。
「……出ませんね」
ミナトが言った。
「一度もネクタイに触れていない。知りようのない情報を話している、一番危険な報せなのに」
「観測報告。代わりに、過去十通にはなかった所作を一つ確認しています」
映像が冒頭へ巻き戻された。
報告を始める前、組んだ両手の上で、八代の右手が左手の薬指へ触れている。結婚指輪の表面を、ほんの一度、確かめるように撫でていた。
「これです。継続時間は一秒未満ですが、以前の報せには存在しません」
解析室が静まり返った。
佐紺は腕を組んだまま天井を仰ぎ、長い時間をかけて考えをまとめていた。やがて視線を下ろすと、光の消えた卓上へ向かって静かに口を開く。
「……妙ですね」
「妙、というと?」
「私たちは今、二つの読み方の間にいます。一つは、八代さんが敵側へ落ちた、あるいは何らかの手段で操られているというものです。敵とつながったからこそ、知るはずのないカルナの情報を知っていた」
佐紺は、端末上の作成日時を指した。
「ですが、この読み方には大きな穴があります。八代さんは、これまで一度も、伝える情報の範囲を間違えていません。言うべきでないことを口にしかけても、必ず途中で止めています」
「慎重な人ですね」
「ええ。この船に関わる誰よりも慎重な方です。その人が敵に通じた途端、相手が知るはずのない情報を、わざわざ報せへ入れるでしょうか。送受信の日付を照合すれば分かるような……」
ミナトの頭の中で、それまで別々に見えていたものが噛み合い始めた。
「……あの方が、そんな単純な間違いをするでしょうか」
そう口にしたのは、佐紺自身だった。自分の問いに対して、静かに首を振る。
「しないでしょう。だとすれば、これは間違いではありません。わざと残したものです」
「わざと……」
「配線にも、似たようなものがあります。本来あり得ない場所に、あり得ない結線がされていたとき、それが素人の間違いなのか、玄人の伝言なのかを見極めなければならない」
佐紺は、ミナトとエイルを順番に見た。
「違いは、その結線が誰に向けられているかです。この日付の矛盾は、送信と受信の時刻を照合できる者にしか気づけません。つまり、船のこちら側にだけ見えるように作られている。宛先のある間違いです」
――私の情報源は、今、あなたたちの敵とつながっている。
――敵が知っていることを、私は知っている。
八代が明言していない言葉が、三人のあいだに同じ形で立ち上がった。
「そう考えれば、ネクタイの癖が消えたことにも説明がつきます」
ミナトは言った。
「無意識の動きを一つも漏らさないよう、最初から最後まで所作を制御している。あの報せの八代さんは、全部を演じている」
「では、指輪は何を意味するのでしょう」
エイルが尋ねた。
佐紺は少し考え、報せに添付されていた送信者の照合資料を開いた。
「財団の記録によれば、八代さんは奥様と死別しています」
映像の中では、八代の右手が左の薬指へ触れている。
「敵から、奥様に関わる何かを取引材料として示されたのかもしれません。そのことを伝えるために、普段はしない所作を残した可能性があります」
「確定はできませんね」
「ええ。指輪の意味については、まだ仮説です」
佐紺は頷いた。
「八代さんがどこまで演じているのかも分かりません。最初は敵を欺くつもりだったとしても、与えられた条件によっては、本当に敵側へ傾いてしまうかもしれない。こちらが無条件に信じてよい状況ではありません」
それでも、一つだけ動かない事実が残った。
八代の真意は分からない。指輪へ触れた意味も、まだ一つには絞れない。
だが、八代へ新たに接触した何者かは、コクヨウからの報告が届くより前に、カルナの喪失を知っていた。
「カルナの位置を知っていたのは、レヴィアタンを動かしている側です」
ミナトの声が低くなる。
「囮歌も同じ側が仕掛けた罠だった。八代さんへ情報を渡した何者かも、その側とつながっている可能性が高い」
佐紺はしばらく黙っていたが、今回は膝の上の工具箱へ手を伸ばさなかった。
「……まずは、八代さんの記録を最後まで洗いましょう」
やがて、そう言った。
「誰が裏切ったのかを決める前に、何が起きているのかを確認する。順序を間違えれば、配線も検証も、必ず見誤ります」
◇
客室へ戻ってからも、ミナトは眠ることができなかった。
ベッドに横たわったまま、頭の中でいくつもの線を引き、それぞれがどこへ向かうのかを考え続けていた。
囮歌と、月から届くぬくもりは、同じ文法で組み立てられている。
カルナの位置を知っていたのは、レヴィアタンを動かしている側だった。
そして、八代へ接触した何者かも、カルナの喪失を知っていた。
三つの違和感は、ばらばらのものではなく、同じ場所へ近づいている。その線の先に浮かんでいたのは、空にある白い円だった。
ミナトは身体を起こした。
時計は、深夜二時を回っている。在職中なら、障害対応のために端末へ向かっていた時刻だった。やること自体は、今夜も変わらない。ただし、調べるシステムは巨大な生きた船であり、障害の疑いが向けられているのは、神と呼ばれていたものだった。
解析室へ戻ると、画面にはコクヨウの深層が開いた道標が、変わらず灯っていた。
祈りの時間帯に生じた内部記録と、そこから伸びる参照線。その一本一本を辿っても、すべてが深層の同じ領域を指し示している。
通常の記録範囲ではない。
表層の意識であるツクヨミにも、自覚されていない場所だった。
以前なら、そのまま一人で潜っていただろう。だがミナトは端末へ触れる前に、佐紺とエイルを呼び出した。
数分後、工具箱を持った佐紺が解析室へ戻り、端末と深層をつなぐ系統に三箇所の物理遮断点を設けた。エイルは観測席から、ミナトの神経波形と、コクヨウ内部の信号変化を同時に監視する。
「異常値を確認した場合は、こちらの判断で切断します」
「お願いします」
「調査は四十分ごとに必ず中断してください」
佐紺は配線を確かめながら念を押した。
「あなたがまだ続けられると思っていても、予定時刻で一度戻る。図書館を開いたときに決めたのと同じ条件です」
「分かりました」
すべての条件を確認したあと、ミナトは糸へ意識を沈めた。
「……入るぞ。いいんだな」
返事の代わりに、暗闇の中で道標が一つ先へ灯った。
その光を追い、コクヨウの深層へ降りていく。乗船して間もない頃に潜った深さを越え、誓約封のある層を避けながら、さらに奥へ進んだ。
深く潜るほど、船の鼓動が遠ざかっていく。
そこは心臓から離れているのではない。心臓の音さえ届かなくなるほど、意識の奥へ隔てられた場所だった。
やがて暗闇の底に、周囲から切り離された区画が現れた。
壁も床も漆黒だったが、入口は何重もの防護層によって囲まれている。何かを閉じ込める牢というより、異物が外へ漏れ出さないよう、一時的に留めておくための保留領域だった。
医療の言葉を借りるなら、検疫室に近い。
その内部には、小さな光の断片が、山のように積み上げられていた。
光片は無造作に放り込まれているのではなく、一つずつ間隔を空け、受け取った順序どおりに整然と並べられている。すべての断片には、受領した日時が記録されていた。
ミナトは、最も新しい一片を読み取り専用の領域へ複製した。
受領日時は、昨夜。
時刻は、ツクヨミが月へ祈っていた最中だった。
指先から、体温が失われていく。
月から届くぬくもりに包まれ、ツクヨミの深層へ運び込まれていたもの。あの優しさの内側に畳み込まれ、一片ずつ送り続けられていた荷物だった。
光片へ触れると、その役割が、人間のシステム用語に近い形で立ち上がってきた。
誰かが訳してくれたわけではない。これは、人へ向けて語られた言葉ではないのだ。機械の命令――囮歌の解析からこちら、嫌というほど波形を照合してきた、あの命令構文だった。エティン達セラフの翻訳が要るのは、コクヨウが人の言葉で語りかけてくるときのほうで、構文と数値の並びだけなら、それはむしろ、ミナトの母国語に近い。
更新要求。
現在の状態は、適用保留。
送信元の署名を、ミナトはコクヨウ自身の基幹系統と照合した。船の最も深い場所で、あらゆる系統が無条件に従う、根の命令にだけ刻まれた署名。それと同じ形式が、届いた更新のすべてへ付与されていた。船の根と同格か、それより上から発行されたとしか読めない――最上位の署名だった。
コクヨウの深層は、届いた更新を適用していなかった。異常を検知するたび通常系統から切り離し、この検疫室へ隔離し続けていたのだ。
止められるのは、命令の層だけだ。
声とぬくもり――意味の層は、船の系を通らない。あれはツクヨミ自身が開いている扉から、彼女の心へ直接届く。深層がどれほど目を光らせても、心へ渡される言葉までは、検められない。
だから三年間、母様の声は素通しで届き続けた。そして、その裏に畳み込まれた牙だけが、一件残らず、この部屋で止められていた。
北へ行け、という昨夜の導きも、同じだ。言葉は彼女へ。仕込みは、ここへ。
しかし、拒絶も削除もできていない。
船の根と同じ形式で署名された命令であるため、コクヨウ自身の権限では完全に破棄できなかったらしい。
光の山の中で最も古い日付は、三年前。月から最初の声が届いた夜だった。
それ以来、ほとんど毎晩。
コクヨウの深いところは、表層のツクヨミへ知らせる方法を持たないまま、更新命令を一度も実行せず、ここへ留め続けていた。
警告しなかったのではない。
ミナトは、この深さから表層へ向かう回線を探してみた。意識から降りてくる道は、何本もある。だが逆へ――深層から彼女の意識へ何かを告げるための道は、一本もなかった。塞がれているのではない。最初から、作られていないのだ。
考えるより先に手が動く場所。言葉になる前の領域。人の身体が毒を吐き出すことはできても、毒の名前を心へ告げられないのと、同じだった。
一つであることと、隅々まで見通せることは、別物じゃ――いつか彼女自身が言っていた、そのとおりに。
だから深層は、留めた。読める者が現れるのを待った。そして道標を灯し、ここまで案内した。
言葉を持たないものの、これが精一杯の告発だった。
ミナトは光片の解析を始めた。
一つ一つは、単独では意味を持たないほど細かく分割されている。しかし、三年間に送られた断片は、すべてこの場所へ残されていた。
四十分ごとに接続を切り、佐紺とエイルの確認を受けてから、再び深層へ戻る。断片を並べ替え、重複を除き、前後に刻まれた署名を照合していく作業を、何度も繰り返した。
夜が明ける頃、ようやく更新命令の全体が組み上がった。
表示された内容を前に、ミナトはしばらく動けなかった。
起動条件は、オルドゥス封印の完了。
条件成立時には、保留中のすべての更新命令を、通常の防護手順を無視して強制適用する。
実行内容は、コクヨウ動力コアの固定解除。
動力コア本体、および全出力の位相転送。
その転送先として指定された座標を、ミナトは三度照合した。
間違いではなかった。
月だった。
兄を封じなさい、という導きは、オルドゥスを倒すための指南ではない。
封印の完了を鍵として、三年間にわたって保留されてきた更新を、強制的に適用するための手続きだった。
ツクヨミが月の言葉へ従い、兄を封じ終えた瞬間、彼女の心臓はコクヨウから固定を解かれ、すべての出力とともに月へ抜き取られる。
三年前、最初の祈りが行われた夜から。
すべては、この条件を成立させるために積み上げられていた。
導きが昨夜だった理由も、おそらく同じ帳簿の上にある。二体目を退け、船の牙が兄と渡り合える水準にあると示された――その翌日を、月は選んだ。熟すのを、待たれていたのだ。
◇
発見から、告げるまでに、まる一日を置いた。
半分は、裏取りのためだった。エイルが署名の照合をやり直し、佐紺が遮断系統の記録を調べる。三年間信じてきた声を疑えと告げるのに、一晩の読解一つを根拠にはできない。
もう半分は、時刻のためだった。祈りは、毎晩ある。知ったばかりの傷を抱えたまま、嘘のつけないあの人を、今夜の月と向き合わせるわけにはいかなかった。告げるなら、祈りの直後。次にあの声と向き合うまでの丸一日を、立て直しの時間として渡せるように。
そして、警告の言葉は選ばなかった。騙されるな――その一言は、彼女の三年間を丸ごと否定する刃になる。ミナトにできるのは、断じることではなく、彼女自身の目で確かめられる場所へ、案内することだけだった。
ミナトがツクヨミを深層へ誘ったのは、翌日の深夜だった。
その夜の祈りは、すでに終わっている。
「見せたいものがあります。……二人だけで」
ツクヨミは、理由を尋ねなかった。
糸を通じて感情の名が流れたわけではない。ただ、ミナトの呼吸が普段より浅く、指先の温度が下がっていることくらいは、彼女にも伝わっていたのだろう。
二人だけ、と言っても、監視まで切ったわけではない。深層へ降りる前に、ミナトは佐紺とエイルへ頼んであった。物理遮断点の待機と、二人分の生体波形の観測。見るものの中身は伝えず、どちらかの波形が乱れたら問答無用で切ってください、とだけ告げてある。
検疫室の入口まで来ると、ミナトは足を止めた。
「これから見せるものについて、俺は先に結論を言いません。説明も、必要になるまでしないつもりです。見たうえで、あなた自身で確かめてください」
「……回りくどいの」
「回りくどく、させてください。これだけは」
ツクヨミは、ミナトの顔をしばらく見つめてから、小さく頷いた。
「……よかろう」
二人で検疫室へ入った。
ツクヨミは、積み上げられた光片を見た。それぞれに刻まれた受領日時を確認し、最も古いものが、三年前の最初の祈りと重なっていることに気づく。
裸足の足裏から、検疫室の構造も読み取った。
彼女は、この船そのものだ。意識の届いていなかった領域であっても、道を示されて直接触れれば、そこが何を目的として作られ、何を止め続けてきたのかは理解できる。
銀色の目が、見開かれたまま動かなくなった。
「……これは」
ミナトは答えなかった。
代わりに、解析して組み上げた更新命令を表示した。
ツクヨミの視線が、オルドゥス封印という起動条件から、動力コアの固定解除へ移り、最後に転送先の座標で止まった。
そのあとミナトは、二つの波形を彼女の前へ並べた。
一つは、囮歌の最後の一節。
もう一つは、昨夜送られてきた更新片を包んでいた、月のぬくもりの波形だった。
言葉による説明はしなかった。二つの光の帯だけが、暗い検疫室の中で並んで揺れている。
ツクヨミは長いあいだ、それを見つめていた。
やがて手を伸ばし、二つの波形へ指先で触れる。歌として聴くのではなく、その構造を読み始めた。
最初の区切りを照合し、同じ箇所へ戻る。次の区切りを確かめたあと、再び冒頭から確認する。
周期、振幅、長い波の中へ折り畳まれた短い波。意味の終わりを示す、ごくわずかな下降。
何度読み直しても、その組み立ての規則に、違いは一つも見つからなかった。
途中から、ツクヨミの指の動きは遅くなった。それでも照合を止めず、最後の一点まで自分の手で確かめた。
やがて、指が光の帯から離れた。
「……わしは、の」
声は、異様なほど静かだった。
「母というものが何かは、知識では知っておる。優しさの形も、この船の者たちから数え切れぬほど貰うた。じゃが、わし自身の覚えの中には、比べるものが何一つなかったのじゃ。声も、ぬくもりも、思い出せるものが何もない」
銀色の目は、光片の山へ向けられたままだった。
「じゃから、疑うことができなんだ。あれは、わしを子と呼んだ、初めての声じゃった。初めてのものには、比べる相手がない。比べられぬものを、どう疑えばよかったのじゃろうな」
足元で、検疫室の淡い光が一度だけ揺れた。
「わしが信じておるあいだ、わしの深いところだけが、これを止め続けておったのか」
ミナトは答えなかった。
それは今、ツクヨミ自身が確かめ、受け止めなければならないことだった。
「……のう、ミナト」
ツクヨミが振り返った。
「一つだけ、聞かせてくれ。あのぬくもりも、声の温かさも……すべて、偽りだったのか」
ミナトは目を逸らさなかった。
「あなたが温かいと感じたことまで、偽物になるわけではありません」
「……本物だと申すのか」
「俺も浴びました。あれが本当に温かかったことは、否定できません」
ミナトは一度、積み上げられた更新片へ目を向けた。
「ただ、温度が本物だったことと、向こうがあなたを愛していたかどうかは、別の問題です。計算で作られた温度でも、受け取った側の身体は温まります。その事実まで嘘になるわけじゃない」
ツクヨミは黙って聞いていた。
「あれほど温かくなければ、三年間もあなたへ届かなかった。あなたが何も覚えていないことも、温もりを求めていたことも、向こうは知っていた。知ったうえで、そこを入口にしたんです」
ミナトの拳に力が入る。
「温もりを必要としている相手へ、毒だと分からないよう、温かく包んで差し出した側が悪い。受け取った方じゃない。俺は、そう思います」
ツクヨミは、長いあいだミナトを見ていた。
「…………そうか」
やがて光片の山へ向き直り、誰にともなく呟いた。
「毒は、甘くなければ飲まれぬか。……道理じゃの」
検疫室の壁を走る光が、低く一度だけ脈打つ。
「三年分の、甘い毒か。ようもまあ、飽きもせず運び続けたものじゃ」
声は低いままだったが、その奥には、それまで存在しなかった熱が宿っていた。
◇
翌日、CICへ中枢要員が集められた。
ミナト、朱音、佐紺。エティン、ダスラ、ニサバ、ロタ、エイル。そして、コアの前に立つツクヨミ。
検疫室の存在と、三年間保留されていた更新命令、囮歌との文法の一致、八代の報せから読み取れた事実が、順を追って共有された。
朱音は話の途中から、拳を強く握り締めたまま動かなかった。
「……ほな、北へ行け、兄ちゃんを封じたら皆が助かるっていう、あれは全部……」
「餌じゃ」
ツクヨミが答えた。
その声は、まだ平坦な形を保っている。
「封印の完了が、鍵になっておる。わしが兄を封じ終えた瞬間、三年分の更新命令が強制的に適用され、わしのコア――心臓は月へ抜かれる」
「っの……クソ月が!」
朱音の拳が、管制卓を叩いた。
「うちらのことも、うちのお父ちゃんのことも、全部餌に使うて! 撃ち落としたれ! 今すぐ槍で、空にでっかい風穴を――」
「朱音様」
ニサバが、静かにその言葉を遮った。
「お気持ちは共有します。ですが、先に状況を整理させてください」
端末へ、三つの項目が表示される。
「第一。月が、本船に企みを知られたと把握している兆候は、現時点では確認されていません。昨夜の祈りは、ツクヨミ様が検疫室の存在を知る前に、通常どおり終了しています。月が異常を察する理由は、まだないと考えられます」
全員の視線が、ツクヨミへ向いた。
「第二。祈りを突然やめる、あるいは月からの信号を遮断すれば、計画の露見を悟られる可能性があります。その場合、三年間準備してきた手段を捨て、より直接的な方法へ切り替えることも考えなければなりません」
続いて、三つ目の項目が開かれた。
「第三。八代様が敵の監視下で演技をしている場合、本船が予定外の動きを見せた瞬間、あの方の立場も危うくなります」
「更新命令そのものは、消せないのかい」
ロタが尋ねた。
ミナトが答える。
「今の段階で無理に触れば、どんな反応が返るか分かりません。送信元の署名は、コクヨウの基幹系統が無条件に従う形式のものです。深層は適用を止めていますが、拒否も削除もできていない。下手に書き換えれば、月へ異常を返すか、その場で更新を強制適用させる可能性があります」
「したがって、現時点で最も危険が少ないのは、気づいていないように振る舞い続けることです」
ニサバが結論を述べた。
「祈りを続け、北進も止めない。月の側から見れば、導きを信じ、計画どおりに進んでいる状態を維持します」
CICが静まり返った。
嘘がつけないと繰り返してきた少女へ、母を信じているふりを続けろと言っている。
「……代案を探します」
佐紺が口を開いた。
「祈りを続けずに済む方法も、更新命令を安全に無効化する方法も、何か技術的な抜け道があるはずです」
「よい」
ツクヨミが顔を上げた。
「ニサバの整理が、今は最も正しい。わしが続ける」
「ツクヨミ様……」
「北進も止めぬ」
ツクヨミは、CICに集まった者たちを一人ずつ見回した。
「月の筋書きどおりに動いて見せる。あれの目に映るわしらは、餌へ食いついた哀れな魚のままでよい」
その背後では、コアの光が静かに明滅している。
「そのあいだに、わしらは、わしらの答えを探す。オルドゥスを封じる以外の形で、争いを終わらせる道を」
「封じる以外の形……」
ミナトが繰り返した。
「うむ。封印の完了が月の鍵になるのなら、鍵の掛からぬ終わらせ方を探せばよい」
方針は決まった。
その日から、コクヨウは二重の航海へ入った。
表向きは、女神の導きに従って北を目指す巡礼。その裏では、月の筋書きから外れ、鍵の掛からぬ形で争いを終わらせる道と、奪われた人々を取り戻す方法を探し続ける。
◇
その夜も、月は大きかった。
ツクヨミはいつもの時刻に甲板へ出たものの、祈りの場所へ足を踏み入れる直前、一度だけ立ち止まった。
振り返る。
少し離れた場所に、ミナトが立っていた。
昨日までは、誰もいなかった位置だった。今夜から自分がそこにいると、ミナトが決めた場所でもある。
「……のう、ミナト」
「はい」
「わしは、嘘がつけぬ」
銀色の目が、月の光を映していた。
「つけぬまま、今のわしとして三年、生きてきた。嘘のつき方など、習うたこともない」
ツクヨミは自分の両手へ目を落とし、言葉を探しながら続ける。
「じゃから、見ておってくれ。わし一人では、これは嘘のままでおれる自信がない。じゃが、お主が見ておれば、これは嘘ではのうて……芝居ということになるじゃろう」
顔を上げ、ミナトを見た。
「観客のおる嘘は、芝居じゃ。芝居なら、わしにもできるやもしれぬ」
「……見ています」
ミナトは答えた。
「幕が下りるまで、ずっと」
ツクヨミに、偽りの言葉を組み立てる習慣はなかった。
知らないことを知っているとは言えず、感じていないことを感じているとも言えない。これまで何度も口にしてきた「嘘がつけぬ」は、誠実であろうとする信条だけではなく、彼女の心の作りそのものだった。
だが今夜、月へ見せるものは、彼女一人が真実として差し出す言葉ではない。
ミナトと二人で決めた芝居だった。
月を信じていた昨日までの自分を、役として繰り返す。その姿が演技であることを知り、最後まで見届ける観客がいる。
彼女にとって、それは嘘ではなかった。
二人で演じる、ひとつの物語だった。
ツクヨミは小さく頷くと、月へ向き直った。
いつものように膝を折り、両手を胸の前で合わせる。
間もなく、あのぬくもりが降りてきた。
三年間、彼女の生のすべてを包んできた温度が、何も知らないまま信じられていると思っているように、いつもと同じ優しさと、いつもと同じ周期で流れ込んでくる。
ツクヨミは、黙ってそれを浴びた。
背筋を伸ばし、目を閉じる。安らいでいるように見える横顔にも、祈るために合わせた手にも、わずかな乱れさえなかった。
糸を通じてミナトへ届いたものには、感情の名前がついていなかった。
ただ、一つの体感だけがあった。
ぬくもりの中で、凍えている。
温かいものに全身を包まれながら、身体の芯だけが、どこまでも冷え切っていた。
祈りは、いつもと同じ長さで終わった。
月は、いつもと同じぬくもり以外、何も返さなかった。
ただ白く、海と船と、初めて信仰を演じた少女を照らしていた。