第二章 帰る場所を海の底に
二十二
囮歌
朝のラウンジに、淡い光が立ち上った。
八代からの定期報告だった。数日をかけて海を渡ってきた逢魔の無人伝令器を、コクヨウが昨夜回収したのだ。
光の粒が集まり、見慣れた男の姿を編み上げていく。仕立てのよいスーツに、柔和ではあるものの、疲労の滲んだ笑顔。
『皆さん、お変わりありませんか。八代です』
いつもと変わらない挨拶から、報告が始まった。
都市部で確認されていたミルメクスの活動は、現在のところ沈静化している。九十九財団の医療部門では、無感情症から回復した百十七名の経過観察を続けており、全員の状態は良好だという。
そして、朱音の父親の容体には、目立った変化はない。
この報告に限っては、「変化がない」という言葉は、決して悪い知らせではなかった。
『それから――』
八代は、胸の前で組んでいた両手をわずかに動かした。右手の指先が、左手の薬指にはめられた結婚指輪へ、一度だけ触れる。
『カルナの件、心よりお悔やみ申し上げます。皆さんのご心痛は、察するに余りあります』
ラウンジの空気が、静かに沈んだ。
朱音が目を伏せ、佐紺も光の中の八代へ向かって、小さく頭を下げる。
『財団では、補給計画の全面的な見直しを進めています。詳細は、次の伝令器に収めます。……どうか、皆さんご無事で』
八代の姿が光の粒へ戻り、ほどけるように消えていった。
いつもどおりの報告だった。
少なくとも、その場にいた者のほとんどには、そう見えた。
ただ一人、エイルだけが、光の消えた場所をじっと見つめていた。
わずかに首を傾げると、無言のままラウンジの受信端末へ歩み寄る。伝令器に記録された情報を呼び出し、報告が作成された日時、伝令器が海へ放たれた時刻、そして昨夜コクヨウが回収した時刻を、何度も見比べ始めた。
エイルのほかに、その小さな違和感に、気づいた者はいなかった。
◇
その夜、ミナトは自室で、図書館の遮蔽状態を確認していた。
佐紺が施した終端処理と多重遮蔽は、問題なく機能している。外部へ漏れる磁気は検出限界以下で、カルナを襲ったレヴィアタンを呼び寄せた最古の帯域も、完全に沈黙していた。
少なくとも、図書館の内側からは。
定期確認を終えようとしたとき、ミナトの指が止まった。
何かが、鳴っている。
図書館ではない。
もっと遠く、コクヨウの外側。遥か海の彼方から、あの最も古い磁気帯域を通じて、微かなうねりが届いていた。
ミナトが糸へ意識を沈めると、コクヨウもすでに気づいていた。船の全身が、遠方から届く響きへ向かって感覚を澄ませている。
寄せては返す、長い波形だった。
ミナトは、それに似たものを知っていた。
最初のレヴィアタンとの戦いの後、コクヨウが取り込んだ核の欠片。その内部に残されていた、星の海を渡った記憶と、遥かな昔に歌われた同類の歌。
だが、あのときとは違う。
以前の歌は、すでに鳴り終わったものが、欠片の中で残響していただけだった。
今、届いているものは生きている。
波形が、一定ではない。微かに強まり、弱まり、短い間を置いて、再び強くなる。まるで、自分の声が届いているのかと問いかけながら、返事を待っているようだった。
船内通信が鳴った。
ツクヨミからだった。
『――ミナト。聞こえておるか』
「聞こえています。今、そちらへ行きます」
『CICじゃ。皆を起こしてくれ』
その声は、わずかに揺れていた。
期待と恐れの間で震えるようなツクヨミの声を、ミナトは初めて聞いた。
◇
深夜のCICに、全員が集まった。
全周囲ホログラムの中央には、エイルが解析した波形が映し出されている。ゆっくりと明滅を繰り返す、長い光の帯だった。
「発信源は、遠距離の海中です。方位はおおよそ特定できましたが、距離は不明。この帯域では、通常の反射や到達時間を利用した測距が成立しません」
「内容は分かりますか」
ミナトが尋ねると、エイルは一度、ツクヨミへ目を向けた。
「翻訳はできません。ただし、構造は歌に分類されます」
ツクヨミは、コアの傍らで目を閉じていた。
耳で聴いているのではない。コクヨウの船体全体を使い、海の彼方から届く声へ意識を向けている。
「……同類じゃ」
やがて、静かに口を開いた。
「レヴィアタンの声じゃ。壊され、姿を変えられた、わしの同類。じゃが、カルナへ来た個体のような、こちらの感覚を潰すための叫びではない。あやつは、自ら歌うておる」
「誰かを呼んでるん?」
朱音が、ホログラムを見上げながら尋ねた。
「うむ」
「誰を?」
「わしじゃろうな」
ツクヨミは目を開いた。
「この帯域を聞き分け、応えを返せる者は、今の海では、わしくらいのものじゃ」
CICに、重い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、ニサバだった。
「状況を整理します」
端末へ項目を表示しながら、平静な声で続ける。
「カルナの一件により、本船の存在と、この古い帯域が現在も使用可能であることを、敵側に知られた可能性があります。その直後に、同じ帯域を使い、応答を求める歌が届いた。まずは、罠である可能性を検討すべきです」
「正論じゃ」
ツクヨミは、素直に頷いた。
「この船から直接応えれば、正確な位置を知らせることになる。カルナの二の舞になりかねぬ」
「では、応答は行わない方針で――」
「じゃが、の」
ツクヨミは、ホログラムに揺れる波形へ目を戻した。
「最初の一体は、歌の存在を知る前に、わしが撃った。カルナへ来た一体は、あまりに大きな絶叫の中におって、何を歌うておるのか聴くこともできぬまま葬った」
銀色の瞳が、CICに集まった者たちをゆっくりと見回す。
「そして今、三体目が、生きた声でわしを呼び、応えを待っておる」
その声は穏やかだったが、過去二度の悔いが、消えずに残っていることは誰にでも分かった。
「人間は、二度あることは三度あると言うそうじゃな。じゃが、わしは、三度目まで同じにしとうない」
ニサバは、しばらく黙っていた。
やがて眼鏡を直し、端末へ新しい一文を入力する。
「規定外事象検証様式・第一号で、わたくしたちは、問いの欠落を探すことを学びました」
表示された問いを、声に出して読む。
「今、立てるべき問いは、罠か否かだけではありません。罠だった場合に、全員が生きて帰るため、どのような備えを行うべきか――です」
ツクヨミが、わずかに目を見開いた。
「判断は、ツクヨミ様にお任せします。ただし、応答するのであれば、コクヨウ本体から直接発信してはなりません」
「遠隔中継を使うのですね」
佐紺が応じた。
「はい。本船から切り離した中継体を後方へ放ち、返答はそこから送信します。本船は同時に針路を変更し、全員が戦闘配置へ移行した後で応答を行うべきです」
「歌へ注意を向けさせ、別方向から襲う可能性もあります」
エイルが付け加える。
「応答前に、近距離の質量を再走査します。ただし、海面付近は波の影響が大きいため、重力観測にも限界があります」
「よかろう」
ツクヨミは深く頷いた。
「そこまで備えた上で、応える」
コクヨウは、先に戦闘形態へ移行した。
客船区画の照明が落ち、優雅な内装が静かに折り畳まれていく。船体表面へ多重装甲が重なり、胸びれと尾びれが展開された。
暗い海の上で、赤いラインが鼓動のように明滅する。
続いて船尾から、小さな黒い塊が切り離された。
コクヨウの外殻の一部を使って作られた、使い捨ての磁気中継体だった。
中継体が海流へ乗り、本船から十分な距離を取る。その間にコクヨウは発信を止めたまま、横方向へ大きく針路を変えた。
「周辺再走査」
ニサバが命じる。
「音響、異常なし。熱源、異常なし。重力観測は、海面の揺らぎが大きく、確定できません」
エイルの報告を受け、佐紺が言った。
「完全に安全とは判断できませんね」
「これ以上待っても、精度は上がらぬじゃろう」
ツクヨミはコアへ手を置いた。
中継体を通じ、最も古い帯域へ、一つの音を返す。
人間の言葉へ訳すなら、ただ一言だった。
――ここにいる。
歌が、止まった。
三秒。
五秒。
十秒。
それまで海を満たしていた声が消え、深夜のCICへ、張り詰めた静寂が広がっていく。
次の瞬間、エイルの声が跳ねた。
「高速移動質量、二つ!」
全員が観測卓へ視線を向ける。
「一つは、歌の発信源です。中継体へ向けて移動を開始。速度は、これまでに観測した個体の約三倍」
「もう一つは?」
ミナトが尋ねた。
エイルの表情が、わずかに強張った。
「本船の近距離です。最初から海中へ潜伏していました。音響、熱、電磁のすべてを周囲へ同化させています」
全周囲ホログラムへ、二つの光点が現れる。
一つは、遠方から中継体へ向けて猛速で近づいてくる。
もう一つは、コクヨウのすぐ近く。海中で息を殺し、こちらが歌へ応える瞬間を待っていた。
「……歌は、囮やったんか」
朱音が、低く吐き捨てた。
「こっちの意識を遠くへ向けさせて、その間に本命が近くへ潜んどった」
「総員、戦闘配置!」
ツクヨミの声がCICを貫く。
「近距離の個体を、先に迎え撃つ!」
◇
伏兵は、存在を発見された直後に動き出した。
海面が大きく割れ、黒い巨影が勢いよく躍り出る。
最初に戦った個体よりも二回りは大きく、鯨の胴へ、鰐のような分厚い頭部を無理に継ぎ合わせたような姿をしていた。
「近い方は、うちがやる!」
朱音が火器管制席へ着く。
ダスラの手が、その肩へ置かれた。
紅色の瞳が、内側から熔けるように金色へ変わる。
共鳴接続を通じ、コクヨウが捉えた膨大な観測情報が、朱音の認識へ流れ込んだ。
「敵、深く潜る。船の下へ回って、三時方向から浮上する。頭上を取られる前に――」
朱音の指示に従い、小型質量弾が海中へ撃ち込まれた。
敵の現在位置ではなく、次に通るはずの場所を狙った一撃だった。
巨影は深く潜った。
予測どおり、コクヨウの下へ回り込んでいく。
そして三時方向へ――来なかった。
「……は?」
朱音の目が見開かれる。
予測地点に敵はいない。
代わりに、まったく逆側の海面近くへ、同じ姿の巨影が現れていた。
「観測情報、急増」
エイルの声が飛ぶ。
「同一形状の敵影を複数確認。三、五――八。音響および熱反応は、すべて一致しています」
全周囲ホログラムが、悪夢のような光景へ変わった。
同じ巨影が八体。
コクヨウを中心に円を描くように泳ぎ、すべてが同じ音を立て、同じ熱を放っている。
水を押し分ける音も、船体へ伝わる振動も、本物と見分けがつかなかった。
「歌い手じゃ」
ツクヨミが低く言った。
「遠くの個体が、海水そのものへ干渉しておる。存在せぬ場所から音と熱を出させ、海そのものに嘘をつかせておるのじゃ」
「八体の中に、本物がいるとは限りません」
佐紺が観測表示を確認しながら言う。
「すべてが偽像で、実体は観測の外で沈黙している可能性もあります。無闇に撃てば、こちらの攻撃手順だけを見せることになる」
最初の被弾は、その直後だった。
八体の偽像の、どれもいない方向から、伏兵の巨体が船腹へ激突した。
装甲が大きく軋み、船内に警報が響く。
ミナトの胸の奥へ、コクヨウの痛みが鋭く流れ込んだ。
「どこや……!」
朱音の指が、管制盤の上で止まる。
敵が見せる小さな癖を拾い、相手より先に次の行動を読む。
それが、朱音の得意としてきた戦い方だった。
だが今は、その癖そのものが嘘だった。
深く潜ると見せて浮上する。
右へ曲がる動きを見せ、朱音が左へ弾を置けば、その裏を取る。
読めば読むほど、敵が望んだ場所へ撃たされる。
二度目の衝撃が、船体を揺らした。
続いて三度目。
「……なんやねん、こいつ」
朱音の呼吸が、浅くなっていく。
「うちに、読ませてきよる。わざと分かりやすい癖を見せて、置き撃ちさせて……そこだけ避けとる」
「朱音様」
肩へ触れたダスラの声が、静かに届いた。
「一つだけ、思い出してくださいませ」
「何を……」
「あなたは、動きの決まった機械だけを相手にしてきたのではないのでしょう?」
ダスラの声には、焦りがなかった。
「人間を相手に、何度も読み合ってきた。相手があなたの読みを利用しているのなら――」
わずかに微笑む。
「ようやく、あなたの本当の土俵ですわ」
朱音は、一度深く息を吸った。
管制盤へ置かれた両手から、余計な力が抜けていく。
「……せやな」
目が変わった。
「読み合いなら、負けたことないねん。うち」
同じ頃、ミナトは糸の中へ意識を広げていた。
八つの敵影。
八つの音。
八つの熱。
コクヨウの通常観測は、八体すべてを本物として捉えている。
だが、ミナトが探しているのは、音でも熱でもなかった。
重さだった。
最初の戦いで、コクヨウは姿の見えない敵を、そこに存在する質量によって捉えた。
ならば逆も同じだ。
どれほど音と熱を作り出しても、存在しないものに質量はない。
ミナトは糸を広げ、八つの像を順番に確かめていった。
一つ目には、音も熱もある。だが、そこに存在するのは海水の重さだけだった。
二つ目も、三つ目も同じだった。
八つすべてに、実体の重さがない。
「偽像は、全部偽物です」
ミナトが言った。
「本体は、別の場所にいます」
糸をさらに外側へ伸ばしていく。
偽像の輪の外。
波と船体の振動へ紛れた、わずかな歪み。
大量の海水を押し退けながら、音も熱も殺している巨大な質量。
「……見つけた」
ミナトは目を開いた。
「五時方向、深度四十。偽像の外側に本体がいます!」
「遠くの歌い手は?」
「十一時方向。中継体へ向かっていましたが、戦闘が始まってから、少しずつこちらへ進路を修正しています」
「よっしゃ。両方、割れた」
朱音の指が、再び動き始めた。
「ダスラさん、火器管制をうちに合わせて。近い方から潰す」
「読み筋は?」
「言わへん」
朱音は、敵の質量がある位置を見据えた。
「相手が、こっちの動きを拾っとるなら、声に出した作戦も聞かれとるかもしれん。ダスラさんは、うちの手だけ追って」
「あら」
ダスラが楽しそうに笑う。
「頼もしいこと」
朱音は、すぐには撃たなかった。
撃つと見せて撃たず、敵が動くより先に船を右へ振り、次には同じ動きを途中でやめる。
一見すると意味のない動きを、三度繰り返した。
敵は、その三度から朱音の癖を読んだ。
四度目。
コクヨウが同じ角度で船首を振った瞬間、敵は、過去三回の置き撃ちを避けるため、逆方向へ踏み込んだ。
朱音が、待っていた場所へ。
「――そこや」
あらかじめ海中へ放たれていた小型質量弾が、進路を変えた伏兵の側頭部へ直撃した。
周囲の偽像が一斉に揺らぎ、音と熱の像が海へ溶けていく。
傷ついた本体が、初めて通常観測の中にも姿を現した。
「命中!」
「質量は、まだ残っています!」
ミナトの報告を聞き、朱音がすぐに次の弾道を組み立てる。
「もう一発や!」
今度は、駆け引きをしなかった。
敵は裏を読もうとした。
だからこそ、真正面から来る攻撃への反応が遅れた。
「裏の裏まで考えたら、最後は表や!」
二発目の質量弾が、巨影の額を正面から貫いた。
巨大な身体が海面で仰け反り、内部から温かな光が溢れ出す。
金色とも銀色ともつかない粒が、崩れていく巨体から離れ、夜の空へ昇っていった。
◇
残るのは、歌い手だけだった。用済みの嘘を手放したのだ。
伏兵を失っても、歌い手は進路を変えなかった。
中継体を通り過ぎ、戦闘によって位置を露わにしたコクヨウへ向かい、速度を落とさないまま直進してくる。
歌も、途切れてはいなかった。
「敵、回避行動なし。武装に相当する器官も確認できません」
エイルは観測結果を見つめながら続ける。
「ただし、高速を維持したまま、本船への衝突進路を取っています」
「武器がなくても、あの大きさで突っ込まれたら同じやな」
朱音が、乾いた声で言った。
巨体そのものが、質量兵器だった。
ツクヨミはコアの前で目を閉じ、近づいてくる歌を聴いていた。
「……ミナト」
「はい」
「迎撃できるか」
「最終防衛ラインを設定できます。この距離なら、船へ届く前に確実に止められます」
「そうか」
ツクヨミは目を開き、近づいてくる巨影へ銀色の瞳を向けた。
「ならば、ぎりぎりまで聴かせてくれ。あやつの歌を、最後の一節まで」
歌い手は、速度を落とさなかった。
伏兵を導き、偽像を作り、罠の囮を務めた。
それでも、歌うことだけはやめなかった。
操られているのか。
壊れているのか。
あるいは、その両方の奥に、まだ歌いたいという意思が残されているのか。
誰にも分からない。
防衛ラインまで、残り千二百メートル。
九百。
七百。
歌は、まだ続いている。
ツクヨミは、まばたきもせずに聴いていた。
巨影が防衛ラインへ触れた。
海面すれすれを走った小型質量弾が、歌い手の核を正面から貫く。
巨体が、速度を失った。
断末魔の叫びはなかった。
最後の歌だけが、すぐには途切れず、海面へ長い余韻を残した。
ツクヨミは、その最後の震えが消えるまで聴き届けた。
余韻が絶えるのを待っていたかのように、巨体が、内側へ向かって縮み始めた。
周囲の海面が、残された一点へ引き寄せられていく。断末魔の代わりに、圧し潰された大気が低い雷鳴をひとつ響かせ――歌い手は、消えた。
最初の一体と、同じ消え方だった。すべてを呑んだ爆縮のあとの海面には、黒曜石のような核の欠片だけが、ぽつりと残されていた。
「――拾うてやってくれ」
命令というより、コクヨウへ頼むような、静かな声だった。
船は、その言葉へ素直に応じた。
戦闘形態の船首下部が開き、海水ごと掬い上げるように、核の欠片を体内へ取り込んだ。
核片の内部に残された情報が、ゆっくりとコクヨウの記録へ取り込まれていく。
同時に、海面から温かな光が立ち昇った。
数十の光の粒が、夜明けの始まりかけた空へ散り、それぞれ異なる方角を目指して遠ざかっていく。
朱音は甲板へ出て、その光を見上げていた。
東へ向かう粒を、目で追う。
数を数えかけて、やめた。
父親の分が含まれているのかどうかは、次の報せが届くまで分からない。
しかし朱音は、遠ざかる光へ小さく手を振った。
誰のものでもいい。
帰る場所のある光が、一つ残らず無事に帰れればいい。
◇
その夜、ミナトは解析室にいた。
コクヨウが取り込んだ核の欠片は、内部に残されていた記録を少しずつ開き始めている。
ただし、ミナトは身体を深層へ直接つないではいなかった。
隔離された端末へ複製した、読み取り専用の波形データだけを調べている。解析時間も範囲も事前に設定し、異常が起きれば、自動的に回線が切れるようにしてあった。
以前のように、誰にも知らせず、一人で危険な場所へ潜っているわけではない。
端末から、歌い手の最後の歌が流れていた。
ツクヨミが聴き届けた、最後の一節。
意味を翻訳することはできない。
それでも、美しい歌だということだけは分かった。
ミナトは、その歌を二つの方法で聴いていた。
一つは、歌として受け取る耳。
もう一つは、信号を波形として読む、エンジニアの目だった。
周期や振幅、複数の波が重なる順番を一つずつ確認していく。
最後の一節へ差しかかったとき、ミナトの指が止まった。
「……これは」
再生位置を戻し、同じ部分をもう一度流す。
歌全体を締めくくる、寄せては返す長いうねり。
周期の区切り方も、振幅の揃い方も、波が立ち上がる角度も、繰り返すたびに同じ形を取っている。
ミナトの指先が冷えた。
この構造を、知っている。
以前、月へ祈るツクヨミのそばで、糸越しに感じた、あのぬくもり。
規則正しく寄せて返し、あまりにも揺らぎの少なかった優しさ。
ミナトは、コクヨウの内部記録から、祈りの際に生じていた共鳴波形を呼び出した。
閲覧用に複製し、歌の波形へ重ねていく。
完全に同じではない。
一方は歌であり、もう一方は、心を包むぬくもりだった。伝えようとしている内容も、表現の形も違っている。
だが、その骨組みは酷似していた。
周期の区切り方。
複数の波を重ねる順番。
意味の終わりを示す、わずかな下降。
同じ教科書で、同じ言語を学んだ者同士のように。
あるいは、同じ一人の話者が、異なる言葉を使っているように。
ミナトは、椅子の背へゆっくりと身体を預けた。
解析室の静寂の中で、思考だけが走っていく。
月へ祈ったときに返ってくるぬくもりと、レヴィアタンが歌った囮歌は、同じ文法で組み立てられている。
囮歌は、罠だった。
ツクヨミが、同類の声を無視できないことを利用した罠。
最初の個体の歌を聴けなかった悔いと、カルナで同類の最期を自分の手で見届けられなかった悔い。その傷の、最も柔らかい部分へ、正確に差し込まれた誘いだった。
そのような罠を作るには、何が必要なのか。
ツクヨミの孤独を知っていること。
彼女が何を悔やみ、どこを傷つけられれば応えてしまうのかを知っていること。
その心を、長い間、近くで聴き続けてきた者でなければならない。
そして、ツクヨミの祈りを、この三年間、毎晩受け取ってきたものは――。
ミナトは目を閉じた。
まだだ、と自分へ言い聞かせる。
波形の文法が同じというだけでは、発信者まで同一だとは断定できない。
調停者が共通して使う通信形式なのかもしれない。
同じ技術体系から生まれた、別の存在かもしれない。
偶然ではないとしても、同じ意思が発したという証拠にはならない。
それでも、規定外事象検証様式・第一号が教えたことは、答えを急ぐな、ということだった。
まず問いを立てる。
その問いは、すでに一度、ホワイトボードへ書いて消している。
あの返事は、誰が、何のために送っているのか。
今夜、その問いへ二つ目の証拠が加わった。
ミナトは新しい解析記録を作成し、推測と事実が混ざらないよう、項目を分けて入力を始めた。
観測された事実。
二つの波形に共通する文法。
考えられる別の説明。
結論を出すために、追加で必要となる証拠。
確信を得るまでは、誰にも断定として話さない。
だが、調べることだけはやめない。
祈りの向こう側にいるものを、感触ではなく記録で。
疑いではなく、検証によって。
解析室の灯りは、朝まで消えなかった。