第一章 誰も帰さない
七
日常
隣で海を見ていた佐紺も、同じ変化に気づいたらしい。
その直後、右舷側の水面から灰色の背中が跳ね上がった。
一頭。
続いて二頭、三頭。
イルカの群れだった。
「うわ、イルカや!」
朱音が手すりへ駆け寄る。
イルカたちは船首の斜め前を並んで泳ぎ、ときおり水面から身体を躍らせていた。四百メートルの巨船を恐れて逃げるどころか、競争でもするように波へ乗っている。
「なあ、あれ、船について来とるん?」
「半分は、そうじゃろうな」
ツクヨミが近くに立って言った。
裸足の裏を甲板へつけ、何かを聞き取るように、わずかに顔を傾けている。
「半分?」
「もう半分は、――コクヨウと話しておる」
朱音がイルカからツクヨミへ、ゆっくりと顔を向けた。
「……船が、話す?」
「人の言葉と同じではないがの。声の高さや間、身体の動き、水を押す強さ。返ってくる音の形にも、それぞれ意味がある」
ツクヨミが甲板へ足を置き直すと、足元から低い振動が一度だけ伝わった。
耳で聞き取るというより、靴底から骨へ響くような、ごく短い脈動だった。船体の近くにいる生き物へだけ届くよう、弱く絞られている。
海面を走っていたイルカの一頭が、甲高い声を返した。
「今、なんて言うたん?」
「この先に、子を連れた鯨がおるそうじゃ」
ツクヨミは、船首の左前方を指した。
しばらく目を凝らしていると、遠くの海面から白い潮が立ち上った。続いて、黒く大きな背中がゆっくりと現れる。その傍らには、ひと回りもふた回りも小さな影が寄り添っていた。
親子らしい。
コクヨウは速度をさらに落とし、大きく弧を描くように進路を変えていく。
「この船なら、向こうが避けるんちゃうの?」
朱音の問いに、ツクヨミは不思議そうな顔をした。
「なぜじゃ」
「なんでって……こっちの方が、むちゃくちゃ大きいやん」
「大きい方が避けるのが筋じゃろう。あちらは子連れじゃ。急に潜らせれば、驚かせてしまう」
ごく当たり前のことを言う口調だった。
コクヨウは鯨の親子から十分な距離を取り、速度を抑えたまま横を通り過ぎた。親鯨は逃げなかった。海面へ背を出し、傍らの子供を守るようにゆっくりと泳いでいる。
そのあいだも、イルカたちは船首の波を楽しそうに乗り越えていた。
一頭が高く跳ね、ツクヨミのいる甲板へ身体の側面を見せてから海へ戻る。
「今のは?」
「礼じゃ。子を驚かせずに通ったことへの」
「ほんまに?」
「……船首の波が面白いから、もうしばらくついていく、とも言うておる」
「そっちが本音ちゃうん?」
「さての」
ツクヨミは、ほんのわずかに口元を緩めた。
黒い巨船は、イルカの群れを船首に連れたまま、鯨の親子を大きく迂回して海を進んでいった。
その日の昼前、朱音がゲームコーナーを発見した。
正確には、シアタールームの隣にそれはずっとあったのだが、扉のプレートに「遊技室」と書かれていたせいで、誰も中を確かめていなかったのだ。
扉を開けた途端、朱音の絶叫が廊下に響いた。
「な……なんやこれぇ!?」
駆けつけたミナトと佐紺が見たものは、広いフロアに整然と並んだ最新のアーケード筐体とハイエンドのゲーミングPCの群れだった。レースゲームの筐体があり、リズムゲームがあり、クレーンゲームまである。クレーンゲームの中身は、なぜか高級そうな缶詰だった。
「全部最新型や……出たばっかのグラボ積んでる……それが、ずらっと……」
朱音は祭壇を前にした信者のような顔でフロアを見回している。
「うちの行きつけのゲーセンより設備ええやん……なんで? なんでこの船にこれがあるん?」
「皆様にお寛ぎいただくためでございます」
いつの間にか、扉の脇にエティンが立っていた。
「ネットの調査によりますと、現代の若者の余暇活動の上位は『ゲーム』とのことでしたので」
「ネット調査て」
「ちなみに私も練習いたしました。リズムゲームでしたら、多少は」
「ほんまに?」
朱音が音楽ゲームの筐体を指す。エティンは静かに進み出て一礼し、最高難度を選択し――ほぼ満点で叩き切った。三つ編みの一筋すら乱れていなかった。
「多少て言うたやん!?」
「ネットでは、この程度では『多少』と謙遜するのが作法と学びました」
「変なとこだけ正確に学んでくるやん……」
ミナトは笑いながら、フロアの隅に並んだゲーミングPCへ目を留めた。
見ていたのは最新型の本体ではない。その背面から伸びるケーブルだった。
各端末から出たLANケーブルが床下の集線部へ集まり、そこから何十本もの回線を束ねた多芯の光ファイバーが、壁の奥へ延びている。ゲーム用の設備だけをつなぐには、明らかに規模が大きすぎた。
しかも、人間が使う設備として後付けされた電源配線とは、系統そのものが違うように見える。こちらは最初から、船のもっと深い場所へつながることを前提に組み込まれている。
遊技室のPCを動かすためだけの回線ではない。
職業病の勘が、あの壁の「奥」に、ゲームとは無関係の何かがあると囁いていた。
しかし今は、それを棚上げにした。
今日は、笑っていられる日だった。
遊技室を出て、居住区と作業区画の境目まで戻ったところだった。
普段は閉ざされている作業用の扉が、内側から開いた。先日メイドたちに止められた船体下部への階段とは別の、整備員専用の出入口らしい。
中から、小柄な子供たちがぞろぞろと出てくる。
全員、煤で汚れた橙色のつなぎを着ている。どの子も小学生ほどの背丈しかなく、動きには迷いがない。先頭を行く娘だけが黄緑色の短い髪をサイドテールで束ねていた。
三人が立ち止まって道を譲ると、黄緑の髪の娘が気づいて顔を上げた。
「あ。お客さんら」
娘は三人を見て軽く手を振った。
「そこ、どいてな。ちょっと通るよ」
ぶっきらぼうだが棘はない。むしろ人懐っこい。
一行が去り際、床の重そうな鉄板を剥がして配管を点検していた小柄な女の子が、何の苦もなくその鉄板を片手で持ち上げ、ゴトン、と嵌め直した。大人の男でも重さを感じるはずの分厚い鉄板を、空のトレイでも扱うように。
三人は呆気に取られてその背中を見送った。
「あの子たちも、メイドさんと同じ……? 服装が全然違いますが」
ミナトがエティンに尋ねた。
「はい。彼女たちもセラフです。この船の乗員を、総じて『セラフ』と呼びます」
エティンは静かに頷いた。
「先程の娘は機関長の『ロタ』と申します。ほかの者たちは機関科の乗員です。この船の隔壁や動力系の維持を受け持っております。船体内部の狭い区画へ入り込むため、あのような小柄な体格をしております」
「小学生みたいやったけど……」
朱音が呟く。
「あの鉄板、平気で持ってったやん」
「この船の力仕事は、彼女たちがいないと回りません」
扉の奥から何かを力任せに締め上げる、ガコン、という音が響いてきた。小さな体のどこにそんな力が、と思うような音だった。
その音を背に三人はまた歩き出した。
◇
午後、朱音がFPSの筐体に張り付いていると背後に気配が立った。
ダスラだった。腕を組んで画面を眺めている。
「……あら」
ちょうど朱音が、画面の端に一瞬だけ映った敵を振り向きざまに撃ち抜いたところだった。
「今の、見えてましたの?」
「ん? 見えてたっていうか、足音で分かるんや。あとあのマップ、あそこ絶対通るし」
朱音は画面から目を離さずに答える。指は休みなく動き続け、画面の中では一方的な掃討戦が進行していた。
ダスラはしばらく無言で観戦していた。値踏みするような目が、少しずつ別の色を帯びていく。
「……悪くありませんわね。索敵と、偏差射撃の感覚」
朱音の指が一瞬止まった。
「……まあな」
画面からは目を離さなかったが、その声は少しだけ弾んでいた。
「学校では、あんまり言わんようにしてるけど。ゲームが得意や言うても、どうせ『女の子なのにすごい』で終わるし」
「わたくしは、性別のお話をしているのではありませんわ」
ダスラは画面へ目を戻した。
「普通ではありませんのよ。その索敵能力は」
「これくらい、普通やし」
「いいえ。決して普通ではありませんわ」
ダスラの声がわずかに低くなった。銃声の隙間で、朱音の耳が、届かないはずの呟きの端だけを拾った。
「……映る前に、撃っておりますわね。半秒、先を」
振り向くと、赤い医務長は、画面ではなく朱音の横顔を見ていた。何かを言いかけた形に、唇が開いて――閉じた。
「……ダスラさん?」
「いいえ。……続けてくださいまし。いいものを、見せていただいておりますの」
「そういえばさ」
朱音は、リロードの合間にちらりとダスラを見た。
「ダスラさんて、お医者さんなんやろ? なんで、ナース服が赤いレザーなん?」
「あら」
ダスラは、自分の胸元を見下ろした。
「変かしら」
「変っていうか……その赤、めっちゃ見たことあるで。バイクで横滑りするやつ」
「まあ。正解ですわ」
ダスラは、悪びれもせずに笑った。
「わたくしたちは、長い眠りから目覚めたとき、昔のことをほとんど覚えておりませんでしたの」
「昔のこと?」
「自分がかつて何と呼ばれていたのか。誰と暮らし、何を見てきたのか。そういった記憶ですわ」
ダスラは自分の手を軽く見下ろした。
「けれど、不思議なことに、何をするための手なのかは覚えておりました。わたくしは傷を診ることができましたし、ウェスタは料理を、ロタは船体の修復を知っていた。頭では忘れていても、身体の奥には役目が残っていたのでしょうね」
「ほな、今の言葉とかは?」
「ツクヨミ様が、人間の通信網から集めてくださったものですわ。現代の言葉や文化、生活に必要な知識を、眠っていたわたくしたちへ与えてくださいました」
「頭ん中に直接?」
「ええ。名前も、そのとき新しくいただきましたの」
ダスラは赤い袖口を指先で撫でた。
「ウェスタは厨房に立っていたから、炉を守る女神の名を。わたくしには、癒しを司る神の名をくださいました。それから、人間の医療従事者が着る白い服と、戦士がまとう赤い革の服を見つけて――」
「まさか、合体させたん?」
「ええ。これが似合うだろう、と」
「せやから看護服やのに、バイク乗りみたいになっとるんか……」
「エティンの給仕服も、実を言えばメイド喫茶の制服を参考にしたものですわ。ツクヨミ様の教科書は、ネットに流れていた絵でしたから」
ダスラは少し誇らしそうに胸元を整えた。
「けれど、取り替える気はありませんの。目覚めた朝に、初めていただいたものですから」
脳へ直接の知識に、女神の名付けに、参考資料はメイド喫茶。あまりに荒唐無稽な話が続いたせいで、朱音は途中から、深く考えるのをやめた。
ただ、最後の一言だけは――妙に、胸に残った。
朱音は、画面の中で敵を一人倒してから、言った。
「……めっちゃ似合ってるで。それ」
ダスラの声が、また少し甘くなった。
「ふふ。ありがとうございます」
「なあなあ、それよりダスラさん。ツクヨミちゃんって、普段なにしてるん?」
「……ツクヨミ、ちゃん」
ダスラの眉がぴくりと動いた。
「あかんか? いやだって、あの子めちゃくちゃ可愛いやん。あの喋り方で『うむ』とか言うたびに、わたしもう、撫でたくて撫でたくて手が震えるんやけど、ずっと我慢してて」
「…………」
「なに笑ろてんねん」
「いえ」
ダスラは口元を直したが、声の温度が三度ほど上がっていた。
「朱音様は、よくお分かりでいらっしゃいますのね。ツクヨミ様の素晴らしさが」
「そら分かるやろ」
「ええ。ええ、そうですとも」
その日を境に、ダスラの朱音への当たりだけが目に見えて甘くなった。
◇
同じ頃、佐紺は船の後方区画にいた。
例の「後付けした」電気系統の改修許可が、正式に下りたのだ。
窓口として現れたのは、濃紺のスーツに眼鏡をかけた背の高い女性だった。
「ニサバと申します。本件の管理を担当いたします」
差し出されたのは分厚いファイルだった。改修対象区画の図面、系統図、使用部材の一覧、作業時間帯の規定、報告書の様式。
「作業は一日三回の報告制となります。様式は第三号を使用してください。部材の持ち出しは台帳に記入の上――」
「素晴らしい」
佐紺が心底嬉しそうに言うと、ニサバの説明が止まった。
「……今、何と」
「素晴らしい、と申し上げました。図面が完備され、様式が定まり、規定が明文化されている。現場ではなかなかお目にかかれない環境です。話が早くて助かります」
「……規定ですので」
ニサバは眼鏡の位置を直し、ファイルへ目を戻した。
どうやら、規定を褒められることには慣れていないらしい。
「では西園寺様。第一系統から参りましょう。三十分後の開始でよろしいですか」
「承知しました。時間厳守で」
「結構です」
二人の会話は傍から聞けば商談のようだったが、本人たちは妙に居心地がよさそうだった。
作業に入ると、その居心地の良さに別の理由が加わった。
佐紺は図面を一度見ただけで人間の規格に当てはまらないあの配線の流儀を、するすると読み解いていった。本来であれば人間の工事士には決して読めないはずの、コクヨウの理屈を。ニサバが補足する前に彼は次の系統の構造を言い当てた。
「……西園寺様」
ニサバは手を止めた。
「この引き回しの規則を、どこで」
「いえ、どこでも。見ていれば、なんとなく『次はこう来るだろう』と。法則が違うだけで、筋は通っていますから」
なんとなく、で読めるものではない。
ニサバの視線が手元のファイルの数字へ不自然に滑った。佐紺はその仕草を逃さなかった。さっき自分が規定を褒めたときも、彼女は持っていたペンの進みを急に止めていた。
配線の癖を読むように、佐紺は人の癖も読む。現場では、図面だけでなく、関わる人間の癖も読まなければ仕事が止まるのだ。
規律を重んじる彼女は、内面が揺れたときほど、必要以上に事務的な振る舞いをするらしい。
確証はない。今のところは、ただの仮説だ。
佐紺はそれを口には出さなかった。相手の癖を指摘して警戒されれば、今後の作業がやりにくくなる。それに、知らないふりをしていた方が、彼女の反応をもう少し観察できる。
ニサバは何も言わず、佐紺の顔をしばらく見ていた。
それから手元のファイルへ視線を戻したが、ページをめくる指は止まったままだった。
◇
五日目の夜、ラウンジに三人が集まった。
ミナトがどこからか調達してきたホワイトボードが、テーブルの脇に立っている。
「整理しましょう」
ミナトは、何も書かれていないホワイトボードへ向き直った。
「ツクヨミは、俺たちに『共通する性質がある』と言いました。それが分かれば、なぜ狙われるのかも分かるかもしれない」
「ええな。やろやろ」
三人は思いつく項目を挙げては、潰していった。
出身地。横浜、大阪、東京。バラバラ。
年齢。二十八、十七、三十三。バラバラ。
血液型。A、B、O。見事にバラバラ。
職業、家族構成、病歴、海外渡航歴、利き手――どれも、三人を一本の線で結べるものが何一つない。
一時間後、ホワイトボードは取り消し線で真っ黒になっていた。
朱音がマーカーを置いて、椅子の背に倒れ込んだ。
「あかん。なんもないわ。……あとはもう、三人とも顔がええことくらいやな」
「は?」
ミナトが真顔で聞き返した。
「いや、俺は関係ないでしょう。二人はともかく」
朱音と佐紺が同時にミナトを見た。
「……何を言うてるん、この人」
「黒金さん。真面目な話をしますが」
佐紺がいつもの調子で言った。
「あなたは整っていますよ。造作だけなら、かなり」
「そうそう。地味をかぶった整い顔や。前髪と猫背と自信のなさで、全部台無しにしてるだけで」
「台無し」
「もったいない系男子や。セラフの人らも、この前言うてたで」
「なんか言われてたんですか、俺」
ミナトは本気で困惑した顔をした。顔の話など人生でほとんどされたことがない。だがその困惑の隅で、ふと違和感が首をもたげた。
顔の話ではない。朱音は画面に映る前の敵を撃ち、佐紺は誰にも読めない配線を読み、自分はあのPCの「奥」に理由もなく引き寄せられた。三人とも、何かに妙に長けている。普通の得意とは少し違う、何かに。
――いや、馬鹿馬鹿しい。ゲームと配線と勘の良さが、どうやって一本の線になる。
ミナトは一瞬でその考えを打ち消し、ボードの隅へ追いやった。
「まあ、冗談はさておきや」
朱音はホワイトボードを顎で示した。
「ほんまに、なんもない。なんでこの三人なんやろな」
真っ黒に塗り潰されたボードの隅で、「顔」の一項目だけが、取り消し線を引かれないまま残っていた。
ふと、佐紺が袖口を上げて、腕時計を確認した。
「もうこんな時間ですか」
朱音は佐紺の時計を見てから、ミナトの空いた手首へ目を移した。
「そういや、ミナトさんは腕時計せえへんの?」
「スマホで見ますから」
「仕事中も?」
「パソコンの右下に出ていますし」
「時間まで、画面の中で生きとるんやな」
佐紺が袖口をもう少し上げた。そこには日本製の自動巻き時計があった。
「私はこれです。腕につけていれば動きますし、多少時刻がずれても、自分で合わせればいい」
朱音もピンク色の耐衝撃時計を見せた。
「うちはこれ。電池は要るけど、落としてもぶつけても平気。ゲーセンで何回も筐体にぶつけたけど、まだ元気に動いとる」
ミナトは二人の時計を見比べ、それから自分の空いた手首を見た。
「……俺だけ、腕に時間がないんですね」
「言い方だけ、やたら格好ええな」
「そんなつもりじゃないんですけど」
◇
その夜、客室へ戻る廊下でミナトは足を止めた。
通りかかったメイドたちが笑顔で頭を下げていく。穏やかで、温かい。この数日ですっかり見慣れた光景だった。
だがほんの一瞬。その笑顔の下に、別の何かが透けた気がした。
うまく言えない。強いて言うなら――どうか今だけは、という色だ。
この穏やかさが長くは続かない、と知っている者の笑い方のような――
きっと気のせいだろう。
そう思いながら、その夜はなかなか寝つけなかった。豪華な部屋の海に面した大きな窓の外で、黒い海がどこまでも静かに凪いでいた。
静かすぎる、とミナトは思った。